鴎外への鎮魂歌1 死の直前 

 森鴎外(1862年文久2年~1922年大正11年)は、夏目漱石と並ぶこの時代の日本を代表する作家である。そして、鴎外は作家以外にもう一つの顔を持っていた。陸軍軍医森林太郎としての顔である。

 東大医学部を出た鴎外は、やがて軍医としてトップの地位である医務局長、中将相当の位まですすんだ。両方の分野で超一流になるという、ありえない二刀流だったわけだ。しかし、彼の行状をみてみると、それでもこころは満たされなかったようにみえる。乾いていた、足りなかったのではないかという印象を受ける。

 大正2年2月7日の大阪毎日新聞の記事を紹介する。都立中央図書館で2022年11月に入手したものだ。

 題は「衛生顧問役として宮中に出仕」である。要約する。

 「明治21年1月の「国民之友」新年付録に、山田美妙、尾崎紅葉、坪内逍遥らと並んで、森鴎外の処女作「舞姫」が発表されたが、これがもっとも文壇を驚かせた。一方、日清、日露戦争にも参加し、軍医総監、医務局長となった。他に専門の職業をもって文壇に大名を馳せたのは鴎外一人だ。医学博士、文学博士、金鶏勲章もある。
 ないものは男爵ばかりだが、これも死ぬまでには受けられるだろう。かくのごとき好運の人は世界にも多くあるまい・・・・」

 べた褒めの記事である。外面的な成功は実に輝かしいものだが、内面はどうか? そうとも言えなかったのではないだろうか。この周辺を探っていきたい。

 大正11年7月、死を目前にして、鴎外は文京区千駄木の観潮楼(現在は文京区立鴎外記念館がある)という自宅で床に臥せっていた。結核である。しかし、この病名は、死後も長期に渡り隠されており、表向きには萎縮腎ということになっている。今でいえば腎不全ということだろう。

 7月7日には、天皇、皇后からワインが下賜(かし)された。7月8日には、従二位に叙せられた。任期が短い内閣総理大が従二位に叙されるらしい。学術分野においては、ノーベル賞受賞者などが従二位に叙せられている、ということだから、大変な栄誉だということがわかる。

 しかし、鴎外が欲しかったのは爵位であったらしい。男爵の称号である。ウィキペディアによれば、1886年(明治19年)1月時点における爵位保持者の人口は525名でその親族は合計3419名であった。華族令制定後、毎年多数の 叙爵が行われ、最終的には1016名が叙爵されている。1947年昭和22年)に華族制度が廃止された際の華族家の数は890家だったという。

 鴎外は、盟友の東大医学部長だった青山胤通の受爵運動を行っている。大正6年12月7日付けで鴎外が筆頭となり、医科大学長1人、医科大学教授4人、陸軍軍医監1人の7人連名で「青山胤通氏の為め叙爵請求書」を陸軍大臣大島健一宛にしたためている。それも文面が残っている。その結果、青山は死の前に男爵に叙されている。鴎外は爵位というものを重んじていたものと思われるエピソードである。

1922年7月12日 鴎外死顔 小金井良一撮影 「写真の中の鴎外」(森鴎外記念館)より

 鴎外は、袴をはいて病床にあったという。それは、爵位に叙せられた際に謹んで受ける準備をしていたのかもしれないとされているようだ。

 また、7月9日、付き添いの看護婦が鴎外が「馬鹿馬鹿しい」と大きな声ではっきりと言うのを聴いている。意識が混濁しはじめたころらしい。7月12日に死去した。いったい何が馬鹿馬鹿しいと思ったのだろうか。

 鴎外はなぜ爵位が欲しかったのか? 後に説明する陸軍の上司であった石黒忠悳(ただのり)そして、東大の同級生で同じ陸軍軍医を一歩進んで出世していた小池正直との間には、微妙な確執があったようであり、それら2人が鴎外と同じ陸軍医務局長を歴任し、すでに爵位を得ていたことがあったのではないだろうか。鴎外はただ一人二刀流で成果をあげたが、彼らに及ばなかったと思ったのか。それは、やはり自分が犯した大きな失策にあったのではないかと鴎外は思ったかもしれない。

 彼らとのつながりは、鴎外が東大を卒業して陸軍に入る時から延々と続いている。同級生の小池が石黒に推薦状を書き、鴎外が入職したのである。

 さて、鴎外は、日清、日露戦争において、陸軍の兵食を白米であることにこだわったことから、多くの軍人が脚気で死亡している。その数、2万7千人ともいわれる。一方、海軍においては、後に慈恵医大を創設した高木兼寛が、麦飯を採用して脚気死者を激減させた。さらに、鴎外は、高木らから学ぼうとせず、白米にこだわり続けた。長い月日を経て、ようやく鴎外の暴走を止めたのは、陸軍大臣の命令である。

 これらの事実から、本の表紙にある志田は、鴎外を非医とすら呼んだ。そのほかにも鴎外の責任を追及する意見は多い。

 鴎外の人生は、彼が小説で描いたどの人物よりも見方によれば悲劇的だ。鴎外は自分の人生を以て、もっとも壮大な作品を作り出してしまった。

 良いとか悪いとかの問題ではない。ここで、鴎外がどうしてこうなってしまったのかを少しでも明らかにしたい。精神科医ができることは、鴎外の苦悩を理解することである。それを目的として論をすすめたい。2022年11月