鴎外への鎮魂歌2 生まれ

 鴎外は、島根県の南西部で海に接していない内陸の盆地津和野で生まれた。山にかこまれた川沿いの小京都とも言われる美しい街並みである。当時津和野は、亀井氏の城下町、石見の国津和野である。今こそ人口は6700人くらいだが、当時は2万人くらいいたらしい。

 1868年長崎のキリシタンが迫害を受け、津和野の乙女峠の近くの寺に153人が流され、拷問を受け37人が殉教したという。鴎外が生まれたのが、1862年だから、鴎外が6歳の出来事である。幼少の鴎外のすぐ近くで、国際的な人道問題が発生していた。鴎外の父は藩主とも近い関係であったから、森家への何らかの影響もあったかもしれない。

 森家は代々医師として藩主に仕えた家柄であり、父静男、母峰子の長男(三男一女)として生まれた。父親は蘭医である。鴎外は6歳で藩校である養老館に入学し、四書五経を学び、父からもオランダ語を学んだ。

 廃藩置県により、藩主は東京に移住。藩主や津和野出身の名士西周(にしあまね、峰子の従兄だったらしい)のすすめにより、森家は東京に移住する。鴎外11歳の明治5年6月に父とともに上京し、向島下屋敷の近くに住むことになった。これ以来、鴎外は死ぬまで、一度も津和野に帰っていない

 鴎外の随筆、「サフラン」から、鴎外の幼少期のことが分かる。読書好きで、祖母が嫁入りの時に持ってきた百人一首や浄瑠璃本やら謡曲の筋書きをした絵本などをあるに任せて見ていたらしい。「凧というものを揚げない、独楽というものを回さない、隣家の子供との間に何らかの心的接触も成り立たない」という。

 「というもの」との表現から、鴎外がまさにそういった通常の子供の遊びから離れていたことが分かる。蘭和対訳の字書でサフランという草の名前をみつけ、父親にどんな草ですか?と聞く。父親は親切に「花を取って干して物に色を付ける草だよ。見せてやろうといって薬箪笥の中から、縮れた黒ずんだものを出して見せてくれたという。

サフラン

 鴎外がこのサフランを書いたのは、大正3年、1914年の事である。52歳である。その数年前に自宅近くでサフランを売っているのを見て触発されたのである。約45年前の記憶がよみがえったのであろう。

 津和野には一度も帰らなかったようだが、鴎外にとっては、強い郷愁を感じていたのではないか。なぜなら、医者として、軍人として、作家として数々の成果を挙げ、世間から称賛された鴎外は、遺書の中で「・・・・・余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホルベカラズ・・・・」とある。

 子供の鴎外は、自分の興味関心に従って行動し、純粋だった。しかし、それ以降の鴎外は、何か精力を傾けたとしても、その行為は必ずしも純粋ではなく、別の意図があった。立身出世とか、成果とか、競争とか、さまざまな事情とかに翻弄された日々だったのだ。虚しさを感じたこともあるだろう。それを押し隠してきたのだ。周囲にも自分にも。

 鴎外だけではなく、誰もかもしれない。晩年の鴎外からみて、子供のころの津和野の自分、森林太郎こそが、もっとも純粋で信頼に足る幸福の日々だったのだ、あとは虚飾なのだ、嘘っぱちの栄光と恐ろしいまでの失策の人生だと思えたのかもしれない。ただの想像だが。(2022年11月)