自己実現的生き方と自他実現的生き方(その1)
米国の心理学者マズローは、1908年にニューヨークで生まれました。下の欲求階層説が有名です。簡単に言うと、人間は成長の段階で、もっとも下層にある食欲や睡眠欲などの生理的欲求がまず第一に満たされることが必要であり、次に、安全の欲求、仕事などの社会的欲求、他者から承認される欲求、そして最後になるのが、自己実現欲求だとしたものです。
もちろん、異論はたくさんあるようですが、わかりやすいといえばわかりやすいため、広く知られています。さて、この最後の目標、自己実現について考えてみましょう。
人間の最終的な目標が自己実現だとすると、どうでしょうか。イーロン・マスクのように、自己実現の権化のような人が少数います。電気自動車テスラの社長としても有名だし、多くの分野で自分の思いを次々に実現させていく。彼の自己実現は、政治どころか、宇宙にまで至っています。類をみない知性や超絶的な能力を備えているのでしょう。
さて、話はわき道にそれますが、知人のMに、イーロン・マスクという名前は、アメリカ人としては変わっている気がすると言ったところ、それは、彼が南アフリカ出身だからだと教えてくれました。Mは、最近テスラを買おうとしましたが、テスラのルーフはガラス仕様になっており、少々髪の薄い彼は、帽子を被って運転しなければいけないから断念したとのことでした。マスクは、幸いにも毛量を保っているようです。だから、日差しが気にならないのでしょうか。
さて、上記の写真の下にある「生誕」をみてみると、確かに南アフリカ共和国出身。詳しく見ると、「南アフリカ共和国 トランスヴァール州 プレトリア」。この地名をどこかで聞いた覚えがあります。下の地図をご覧ください。
マスクが生まれた1971年から78年前の1893年5月、一人の偉人がこの地を訪れ、とんでもない目に合います。そこから歴史が始まります。
それは、ガンジーです。彼はインドで生まれた後、英国に留学して弁護士資格をとります。左の写真は、英国時代のガンジーです。ひげも服装も弁護士としての地位も自己実現と言えるようなものです。彼は、厳格な菜食主義とヒンズー教の教えに忠実でした。彼の生き方には非常に不器用な面も多くみられます。ガンジーは、自己実現だけでなく、真理のため、他者のためなど、自を超える方向に進んでいきます。自己実現を超えた生き方になった後の写真が右です。
ネルソン・マンデラが後に苦労したように、ガンジーも南アフリカで人種差別に苦しみます。それは、マスクが生まれたプレトリアへの旅の中で起こります。以下、ガンジー自伝から抜き出しました。
1893年(明治26年)、弁護士になっていたガンジーは、南アフリカで事業をしていたインド人(アブドラ・シェート)の顧問弁護士になるべく船旅をして、ナタールのダーバン港に着きました。インドでは思うようにいかなかったからです。
着いて2ー3日目に、アブドラ・シェートはダーバンの裁判所見物にガンジーを連れて行きました。そこで、ガンジーをじっと見ていた裁判長が、「ターバンを取れ」と要求します。ガンジーは拒み、裁判所を出ます。ガンジーは、黙ってはいません。新聞に法廷での出来事を投書し、大変な論議を引き起こしました。ただ、これは始まりに過ぎませんでした。
ガンジーはダーバンに到着してから7-8日目に、弁護士の仕事のため、ダーバンを出発してプレトリアに向かいました。アブドラ・シェートは、一等車の席を予約してくれています。マリッツバーグに着いたころ、一人の客が来て、ガンジーが有色人種と言うことがわかり、彼は駅員を連れて来ます。
駅員はガンジーに対してこう言います。「ちょっと来い。君は貨物車の方に乗るんだ」。ガンジーは「私は一等の切符を持っているよ」と言います。ほかの駅員が「そんなことは、どうでもいいんだ。君は貨物車に移れ!」。
「わたしは、この客車で旅行するのを許されているのだ。だから、どうしてもこれに乗っていく」。駅員は返します。「君はだめだ。この客車から出ていけ、そうでないと巡査を呼んで追い出すぞ!」ガンジーは「どうぞご自由に。わたしは自分で出ていくのはごめんだよ」。
巡査がやってきて、ガンジーの腕をつかみ、汽車の外に押し出しました。荷物も放り出されて。そして、汽車は出発。ガンジーは駅の待合室まで行って腰を下ろします。マリッツバーグは標高が高く冬で寒かったのですが、外套は預けてある大荷物の中にありました。彼はどうすることもできず腰かけたまま震えていました。
ガンジーはいろいろと考えましたが、「わたしのこうむった艱難は皮相に過ぎなかった。人種偏見という根深い病気の一つの症状にすぎなかった。できることなら、わたしはこの病気の根絶やしをやってみるべきだし、そしてそのための苦難は甘受すべきである。不正の償いにしても、わたしはただ人種偏見の除去に必要な範囲に限って追及すべきである」という結論を出します。
翌朝、ガンジーは鉄道会社の支配人に長文の電報を打ちました。また、アブドラ・シェートも支配人に会うとともに、マリッツバーグにすむ友人に保護を頼みます。翌日、ガンジーはマリッツバーグから汽車で無事、チャールスタウンに到着します。当時、チャールスタウンとヨハネスバーグの間には鉄道がなく、駅馬車に乗ることになりました。苦難の旅はなお続きます。
駅馬車の車掌をする白人(リーダー)は、ガンジーを白人と同席させない方がよいだろうと考え、ふつうリーダーが座る御者台の左右の席ではなく車内の席に座って、ガンジ-を御者台に座らせます。それは不正であったし、侮辱なのだが、怒りをこらえながら、御者の隣の席に座ったといいます。
ところが、途中駅で、リーダーは、たばこが吸いたくなったのか、ガンジーの所に座りたがり、汚い布の上にガンジーに座れと言う。ガンジーは我慢がならず、「わたしをここにすわらせたのは、お前さんなんだ。もともとわたしは車内に席がとれていたはずだ。わたしはその侮辱に耐えてきた。それが今度はタバコが吸いたいからという理由でおまえさんの足の下に座らせようとしている。私は断る、車内の席に座るぞ」。
「その男が私の近くに来て、平手で私の両耳をしたたか殴り始めた。私は御者台の真鍮の柱にしがみついて、手の骨が折れても離すまいと誓った。その男は私をののしったり、引きずったり、殴ったりした。それでも私は動かなかった」。
「乗客の幾人かはかわいそうに思って大声で『おい、彼を放してやれ、彼を殴ってはいかん。彼は正しい。彼があそこにいられないなら、我々の所に腰掛けさせろ』。くだんの男は『かまうもんか』と叫んだがいくらか元気がなくなり、殴るのをやめた。彼は腕を放し悪態をついた」。
「私は生きて目的地に着けるのか心細くなった。くだんの男は私を指さし『用心しろ。スタンダートンについてみろ、おれが何をしでかすか見ていろ!』。幸いなことに、スタンダートンには、幾人かのインド人が迎えに来ていて、ことなきをえた」。ガンジーは駅馬車の支配人に手紙を出すなどして、翌日は問題なく駅馬車に乗ってヨハネスバーグに向かうことが出きました。
ヨハネスバーグに着いた時、迎えの人と会えなかったガンジーは、グランド・ナショナル・ホテルに泊まろうとしました。ホテルのマネージャーは、ガンジーをじろじろと見た後、「空き室はございません」という。後で、インド人の仲間は、ホテルに泊まれると思ったのかと笑います。「私どもがこんな国に来ているのは金もうけのためであり、侮辱をこらえるくらい平気だ」と彼らは言います。
ガンジーは自分の尊厳だけでなく、他人(インド人)の尊厳が守られないことに耐えられなかったのでしょう。リンカーンが黒人奴隷を見ていたたまれなかったのと同じです。
インド人たちは、スタンダートンからプレトリアに行くまでは三等で旅行した方がいいだろうと言います。しかし、ガンジーは一等で行きたいと言い、駅長に手紙を書きます。ガンジーは、けちのつけようのない、ネクタイとフロックコートのイギリス風の服装をして駅長に面会して、一等の切符を売ってくれと言います。駅長は「私はトランスヴァール人ではなく、オランダ人です。切符を差し上げますが、条件があります。車掌が三等に移れと言った場合、私を事件に巻き込まないでほしい。鉄道会社を相手取って、訴訟などを起こさないでほしい」。
ガンジーはそれを了解の上、一等車の席をにつきます。途中で車掌が検察にやってきて、ガンジーがそこにいるのをぷりぷり怒り、三等に移れと指で合図しました。一等切符を見せても「そんなのはどうでもいいんだ。三等に移れ」。ただ、一人のイギリス人がいて、車掌をとがめ、「この方を困らせてどうしようというのだ。私はこのお方とごいっしょしても少しも差支えがない」。車掌は「あなたがクーリー(苦力:インド人中国人労働者)と一緒に旅行なさりたいなら、どうぞ」夜8時ころ、ガンジーは、イーロン・マスクが生まれたプレトリアに到着しました。
1834年に大英帝国は奴隷制を廃止しましたが、これに反発したボーア人(17世紀に開拓者として来たオランダ人やフランス人の子孫)が、1835年の終わりには数千人規模で南のケープ地方から移住を開始して、その多くは内陸方面に定住したそうです。
先住民のズールー族が、それに対抗して戦争になります。1838年12月16日のブラッド・リバーの戦いでズールー族は敗北します。それからまもなく英国はボーア人が建国したナタール共和国を併合し、再び移住を強いられたボーア人はさらに内陸へと進みオレンジ自由国とトランスヴァール共和国を建国します。プレトリアはその中心的な都市です。
先に移住していたインド人は、差別されていることに甘んじて、その分を守って、3等車に乗ったり、ホテルなど行けないところには行かないで済ましていたのです。厄介なもめごとは避けていたともいえるでしょう。しかし、ガンジーは、自分の人間としての尊厳が守られないことに対して、我慢がなりませんでした。曖昧に見過ごすことができなったのです。ガンジーの態度は確かに正しいのですが、インド人たちもはらはらしていたでしょう。
奴隷制度がなくなったのですが、人は道具として人を使いたいという欲求が抑えられません。あるいは、差別を好み、優位を好むのでしょうか。今度は、苦力が奴隷にマイルドな形で代わったということでしょう。今後ロボットに代われば解決なのでしょうか? 悪くはないように思います。
ここで問題なのは、奴隷でもクーリーでも手下でも使いっ走りでも舎弟でも、実行役でも、その地位を受け入れ、人間としての尊厳を失っていることに無関心であれば、安泰でいられるということです。それがいいわけはありませんが。それに対して疑問を持ち、対抗していく人は少数です。二宮金次郎、リンカーン、キング牧師、ガンジー、福沢諭吉。
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。
(2025年1月)