病識とは さまざまな定義(精神科従事者向け)

1. 病識の定義をみてみよう。まず、某大学教授の精神科医の説明である。「主観的な体験の異常や行動異常を自らは病的なものと認めず(病識欠如)、あるいは病的と認めても精神科受診を拒むものもみられる」。上島国俊 「治療の進め方」専門医を目指す人の精神医学第2版 医学書院2004


 精神科専門医の資格を取得するための教科書の記述である。主観的な体験の異常とは、幻聴とか被害妄想のことである。行動異常とは、追われているので大声を出して威嚇するなどである。周囲からみるとありえないことでも、当人は信じ切っている。

 治療の導入の時は、家族に説得されても精神科受診を拒むことも多い。入院が必要なほど重症なのに、どうしても拒否する場合もある。しかし、入院が嫌なのは、必ずしも病識がないからではなく、他人と一緒にいるのが嫌だとか、怖いとか、不自由になるとか、必ずしも病識と関係ないことも多い。

2. 同じ教科書で、他の大学教授が記載している。「精神疾患のあるものでは、受診までの過程に困難を伴うことも多く、また、服薬に関する指示や助言に対しても拒否的な態度を示すことが多い。その理由として、

①疾病否認、病識欠如(私は病気ではない) ②精神主義(病気の原因は精神的なもので薬では治らない。自分で治す)。 ③向精神薬の副作用への誤解と偏見(副作用が強く、習慣性になる)などの理由があげられる。風祭元「精神疾患に対する薬物療法の注意点」同上

  ここで、特徴的なことは、考え方がなかなか変えられないということだ。妄想と同じだ。主張の理由を尋ねてもはっきりしないことが多い。例えば、コロナのワクチンをどうしても受けないと主張し続ける統合失調症の患者さんがいる。当人はその理由はうまく説明できない。これは、統合失調症の拒絶症である場合がある。これは、拒絶症ではないかと看破するのが面白い。

3. DSMではどうなっているか 精神病をもつ人の中には自らの障害に対する病識や自覚が欠如していることがある(すなわち病態失認)、統合失調症症状に対する自覚の欠如を含むこの「病識」の欠如は、本疾患の経過の全期間を通じて持続しうる。疾病への自覚の欠如は、通常、症状への対処方法というよりはそれ自体が統合失調症の症状である。これは、脳損傷による神経学的障害への自覚の欠如、すなわち病態失認と定義されているものに相当する。この症状は、治療へのアドヒアランス不良の予測因子としては最もよく見られるものであり、さらには、高い再発率、非自発的治療の増加、不良な心理社会的機能、攻撃性、そして疾病の不良な経過も予測する。DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル の統合失調症スペクトラム障害 「診断を支持する関連特徴」

 主に神経内科領域で使われる病態失認と近いものとしている。病態失認は、普通は片麻痺の否認を指している。右頭頂葉の脳血管障害によって生じる。バビンスキーやアントンが発見した。統合失調症でも脳の生物学的障害は生じていると考えるならば、病態失認と近い可能性も否定できない。単に心理学的にとか、精神分析的にとか、精神病理学的に片づけられるものではないような気がする。いくら説明したり、疾病教育したところで、病識が得られるとは思えない。疾病教育がうまくいく程度まで薬物療法等で軽快した場合に可能であるということだ。

 このDSMの病識に対する考え方は、わが国の従来の考え方と比べると優れていると感じる。病に対する態度とか構えとか言われてきたが、実際はそれはとても好意的(性善説的)な見方のような気がする。対峙する態度を維持できるものと、健常人と同じような構造だと思ってしまうが、確かに、DSMでいう通り、「それ自体が統合失調症の症状である」という考えの方が正しい気がする。DSMが嫌いな医者は、DSMが形式的で浅いと考える傾向があるが、この病識に関する記述を見る限り正鵠を得ているように思う。実際に多くの患者から学んだことがもとになっているんではないか、と思わせる。いろいろと考えてみると面白い。人は自分の延長でしか外界を見ることができない。

4. 西丸四方も有名な精神科の教授だ。異常な精神現象を示すような患者は大体において自分の異常性を正しく自覚していない。これを病識 insight, Einsicht がないという。 西丸四方 精神医学入門 南山堂 1996

・・・・こういう患者は一部はわれわれと共通の世界にいるが、一部は独自の別の世界にいる(二重定位 double orientation, 複式簿記 )このような患者は自分が精神的に異常であると自覚していない。これを病識、現実検討 reality testing がないという。 西丸四方 同上

 異常な精神症状や問題行動と病識は、同時にはあり得ないのだろうか? 必ず背反の関係にあるのだろうか? 「幻聴が聞こえてきて困っちゃう」という人は結構いるし、幻聴が聞こえてきていることを隠そうとする人もいる。幻聴が幻聴とは分からない人もいる。患者さんの言うことから判断するのでどうしても直接は私は理解できない。患者さんがどのように体験しているかはわからない。つまり、医者の側も病識が持てないということか?

 一部は別の世界にいるとはどういうことか。確かにもう一つの世界を隠している患者がいる。健常者でも隠しているが、患者の隠している世界は、公開されても理解しえない世界であったりする。両方の世界があるから大変だ。現実世界の方はおろそかになる。うまくできなくて当たり前だ。

5. 濱田も有名な精神科の先生だ。優れた用語集には驚く。病識 insight into disease は、患者自らが病気であるとわかっていること。Pick,A. 1882 が、病気への認識を疾病意識の名で記載し、Jaspers.K.1913は、疾病をその種類と重さに置いて正しく判断する患者の態度とした。器質・非器質性を問わず精神疾患全般に用いるが、統合失調症でもっとも問題にされ、一般に病識の欠如は統合失調症の診断根拠に、その出現は寛解の指標とされる。認知症の病識欠如は判断の障害に属し、統合失調症の場合は自我障害の表現なので質的に異なるとのみかたもある。
 病感は、患者が抱く「自分はどこかおかしい」という漠然とした印象。統合失調症では、病感はあっても真の病識は得られにくいとされる。病感が強いと心気症になる。病態失認 anosognosia Babinski,J.1958 は、器質性疾患による身体損傷を無視、否認することで、狭義には右半球病変による左片麻痺の否認を指すが、広義には皮質盲、ワエルニッケ失語、半盲、切断肢、脳手術、失禁の失認なども含まれる。濱田秀伯 精神症候学 弘文堂 平成6年

 「精神症候学」はすごい本だ。精神医学では用語を理解することは重要だ。格調高いこの書籍からスタートしよう。この書籍にときどきもどろう。

6. 世界でもっとも有名な精神科の教科書ではどうなっているか? 洞察(病識)insight : 状況(例えば、一連の症状など)の本当の原因や意味を理解する患者の能力。 とてもシンプルだ。 「精神医学における徴候と症状」 カプラン 臨床精神医学テキスト第2版 2004

 しかし、私もあらゆることの本当の原因、理由はよくわからない。分かることが多いのは、「自動車が動かなくなった理由・原因」のように物の場合だ。今、病識について考え始めた理由もわからない。 「自分の状況の本当の原因や意味を理解する能力 」は、私には欠如している。同時に「他人の状況を理解する能力」も不十分である。間違いはない。はっきりわかる。どうして病識について考えているのか?と聞かれたら、どう答えるか。たいていは、適当に理由を作り上げて答える。人間は理由があって行動するのでなく、行動した後に理由を考えることも多い。

7. カール・ヤスパースは本当にすごい。すごく忙しかっただろうに、患者をよくみているということが、その記載から明らかだから。病識があるかないかの判断をする方法を述べているのは、ヤスパースくらいだ。永遠に引用される。

「疾病意識とは、病気であるという感じはあるが、・・・病気の種類、重さの判断が不十分な患者の態度である。一つ一つの症状、病気全体の種類と重さが正しく判断されていれば病識という。ここでいう正しい判断とは、患者と同一の文化圏の平均的な健康な人間が他の病人に対して行う判断の程度である」。

 「人間が自分自身に対して、その体験を判断するという現象は、精神的な分化度がある程度進んだ段階で明らかになる。この段階より下では、人間は自分のことを知ってはいないようにみえる。重度の知的障害や急性精神病の極期には、その人間が病気に対してどんな態度をとるかという問題はまったく起こらない。こういう患者は何の態度もとらない。こういう場合には、疾病意識がないというよりも、人格の喪失といったほうがよいのであって、疾病意識がないということはそれに含まれる。たとえば、器質性痴呆の時に自分の身体的欠陥を意識しないというのもこれと同種のものである」。 「精神生活の関連」 ヤスパース 精神病理学原論 みすず書房

 さらにヤスパースは次のように述べる。急性精神病の後に精神病に対してとる患者の態度は、せん妄やアルコール幻覚症や躁病などでは、完全な病識が現れた場合、自分は病気だったと腹蔵なくのべ、精神病の内容の話をし、自分に関係ないものになっている。笑いさえもする。一方、統合失調症などでは、過去の精神病のすべてをあけすけに話すことはできない。内容を聞かれると、回答を回避しようとしたり、報告を拒んだり、迫害などいくつかの細かいことを本当だと思っている。こういう場合は病識があるとは言えない。こういう患者の人格は精神病の内容にいつも冒されていて、その内容を自分と別物として客観的に見ることはできない。同上

 ヤスパースの写真をネットでみてほしい。恐ろしく厳しい表情をしているものが多い。フロイトの写真も恐ろしいが、恐ろしさが違うような気がする。ヤスパースは真実に忠実であろうとする厳しさが現れており、フロイトは背後に複雑で表現されえない巨大世界を抱えているような感じを受ける。彼の発見した無意識の魑魅魍魎の世界のような。そこの番人なのか。

8. 日本医大、北大、埼玉医大の教授であった諏訪望の記載も「生きている」と感じる。借り物ではない。彼によればこうだ。「自分の疾病をいかに、またどの程度に判断しているか、どんな心的態度をとっているかということが、診断を確定する場合に一つの重要な根拠になる」としている。 そして、ヤスパースの記述を挙げている。

 諏訪は病識が欠けていると判断される例として、「多くの精神病患者が自らは受診しようとせず、家人に連れられて来院する。自分は病気でないのに無理に連れてこられたと不機嫌になり、診察を拒否する」を挙げている。

 病識の有無は統合失調症の場合に問題となるが、そう病やうつ病でも病勢がすすむと病識は失われる。ところで、内因性精神病でも、はっきりした症状を呈しているときには、診断にさいして病識の有無を確かめる必要はない。脳の器質性障害や機能障害の存在が確実にとらえられる時も同様である。

 臨床的に病識の有無を重視しなければいけないのは、内因性精神病、とくに統合失調症が、治療によって症状が消失したときに、完全寛解に達したかどうかを決定する場合である。罹病中の幻覚妄想がありえないことで、自分の精神状態が異常であったと自覚できれば確実な病識が出たということになり、完全寛解を意味する。症状がなくなっても病識があらわれなければ完全寛解とはいえない。

 さらに、諏訪は「病識の検査」にまで触れている。
病識が出たかどうかは、問診によって確かめるが、必ずしも容易でない。慢性の統合失調症で、「幻聴が聞こえます」と訴えながら、その内容を信じていたり、「すっかりよくなった」と言っていても、病識がなく妄想内容に固執していることがあったりする。

 また、寛解したときには、深刻な劣等感を持つこともあるので、病識について聞く場合は慎重な配慮を要する。現実生活にどのような具体的計画を立てているかを質問することによって、間接的に病識の有無を確かめることも一つの方法である。

 また、病識の出現は周囲への態度によっても察知できる。自分の意思に反して入院させられたことに関して、医師や家人に不満や敵意を抱くが、寛解状態に達した時には、入院治療を受け入たことは結局自分のためであったと考え、感謝の気持ちを表明するようになることも見逃せない。この傾向は、ことに躁病の場合に顕著である。最新精神医学 南江堂 1985

 このような人から多くのことが学べるだろう。内容が生きていると感じる。だから、長く引用してしまった。もう古い本なんだが。

9. 日本統合失調症学会の「統合失調症」の第2部「統合失調症の基礎と研究」(深尾憲二朗)に「病識の欠如」の項がある。ここに面白い記述がある。「特定の知的機能の低下ではなく、人格全体が変化した結果、自分の状態を異常ととらえなくなっているものと理解されてきた。しかし、近年では、自己の状態についての認知の障害ととらえられ、認知療法や心理教育の対象とされるようになってきている」。医学書院 2013 

 認知療法や疾病教育が人気だ。それが有効だと思うのは、重症の病気に罹患していても認知の構造は同じだという前提があるように思う。本当にそれでいいのか? 不当に患者に責任を負わせることにならないか。治療者の病気に対する認識は正しいのか?

10. 次は、元東大教授であり、当院とも深い関係だった秋元波留夫が編集した「神経精神医学」の病識欠如の記載である。「病識とは、患者が自分の疾病や個々の症状に対して立ち向かう心的「構え」が正しいものをいう。その異常性に気づかず、自分が病気であるという自覚を持たない場合を病識欠如という。通常、内因性精神障害では病識が欠如しており、自ら医療機関を受診することが少ない。心因性精神障害では病識が保たれており、自らの異常性に苦しみ進んで受診することが多い。漠然と「本来の自分の調子でない」ことを自覚している場合を病感が保たれているという。病識のない統合失調症の患者の場合でも病感は保たれていることが多い」。「器質性疾患の場合、患者が麻痺や盲目を否認したり、無関心だったりすることがあり、AntonーBabinski 症状という。これも広義の病識欠如であり、疾病否認あるいは疾病無関知という。

 病識は、内因性精神障害と心因性精神障害の鑑別診断に際し重要な指標の一つになる。 十分な病識がついて初めて寛解状態に達したと判定される。幻覚や妄想などの個々の症状でも同様で、それらに対する病識が保たれて初めてそれらの症状から解放されたと判定される。患者が幻覚や妄想が消失したと訴えても、それに対する病識の有無を十分に聴取する必要がある。寛解の程度の判定に病識は極めて重要である。 患者が社会に自立するためには、自分の疾病に正しく対処する必要がある。疾病を管理することができるような十分な病識が必要である。自立した社会生活が可能かどうかの判定をしたり、的確な生活指導をするためには病識の程度を十分把握しておく必要がある。

「病識がつく」、「病識が出る」、「病識を持つ」という言葉の使い方も面白い。英語圏では、「病識を得る」だろうか?

また。「○○がつく」は、なかなかない。「知恵がつく」はあるが、「知恵が出る」、「知恵を持つ」はちょっと難しい。「霊がつく」はあるが、「霊が出る」、「霊を持つ」はないだろう。「鼻血がつく」、「鼻血が出る」はあっても「鼻血を持つ」はないだろう。何が言いたいかというと、この3種の動詞につく名詞は少ないだろうということだ。

 ともかく、病識に関する記載を列挙しました。次には、病識のまとめに進みます。

                              2021年10月14日