病識とは まとめ(精神科従事者向け)
病識についていろいろと調べてきましたが、最後にまとめです。なお、私独自の見解であり、公には認められているものでないことをご理解ください。
病識の定義
病識があるとは、自分が病気に罹患しているとわかることである。問診によっても確認され、客観的には、自ら治療を求める行動をとるとか、服薬をする行為などでその存在を把握することができる。病識欠如は、一つの症状とみるのが妥当と考えられ、病態失認の一形態とみてよい。したがって、病に対する態度というように心理学的にあるいは人間学的、実存的に解釈しない方がよく、むしろ生物学的な問題が強く作用していると考える方が良い。
病識の有無や程度の判定
自分が病気であると思っているか、症状が病的なものととらえているかを聞いてみる。疾病そのもののと症状についてである。しかし、言葉で幻聴があると言っても、それを病的なものと思っていなかったり、信じていることもある。だから、症状の存在とそれが病的であるという認識と両面を確認しなければならない。主観的な面での判別はあいまいとなりやすい。
幻聴に従って行動してしまう、導かれてしまうというのは、病識欠如といってよい。逆に、自ら医療機関を訪ねたり、服薬をきちんと継続するというのは病識があるといっていい。治療を拒否する場合は病識がないといえる。客観的な面での判別である。
これらは、あるかなしかではなく、他の精神症状と同様に、連続的であり、程度の問題であり、しかも、時期や治療によって変動することを理解する必要がある。
患者の主観的な言辞と医療者の客観的な観察から病識に関する情報を得る必要がある。病識欠如は、病期によって変動する連続的な病状である。 主観的な訴えと客観的な観察をすり合わせ、矛盾を見て、総合的に病識の有無や程度を判定するべきである。
病識の意義
病識の有無、病識の程度は、診断に用いられる。心因性では、基本的に病識はあり、統合失調症や認知症では、病識がないことが普通であり、鑑別に用いられる。しかし、病識欠如は連続的な症状であり、その境界は不明確なことも多い。心因性と考えられる心臓神経症などで、動悸がするといって頻回の心電図測定を依頼する場合、病識があるとはいいにくい。だから、診断の絶対的指標ではなく、相対的な指標であることを理解する。
統合失調症の病状の改善の程度と病識の有無、病識の程度は関連する。したがって、回復の指標となるものである。ただ、それは移ろいやすいものである。
病識に関する情報は、診断に有益である。また、回復の判定に有益である。しかし、それは完全に認識できるものではない。
病識の獲得
統合失調症で、病識がない場合に疾病教育だけで、病識を改善しようとすることはできない。なぜなら、病識欠如は、上述したように病態失認と同様に、生物学的な背景を有するものだからである。 脳の器質性障害による疾病否認の場合に疾病教育の効果が乏しいことは誰でも認めるであろう。
薬物療法等の身体療法の結果、病識が自然に獲得される場合と、疾病教育が加わり、より強固に病識が獲得される場合があると考えられるが、疾病教育は限定されたものである。
主体と症状が分離できると考える場合、例えば、フランクルのロゴテラピーでは、病に対する態度が問題になる。ただし、病識欠如は、主体をも巻き込む症状であり、主体の責任性を問うものではない。病識は獲得されるものではなく与えられるものである。
病識が問題にならない場合
病識や病識欠如の判定は、主観的言辞と客観的観察から行うべきだと上述した。また、病識の判定が有効なのは、病気の診断あるいは鑑別と回復の程度の場合である。
これから考えると、主観的言辞が得られない場合、興奮、昏迷、滅裂、意識障害、そう状態、強い抑うつ状態は、病識については問題にならない。病識について言及するのはナンセンスである。病識を把握するには通常の会話が成立することが前提である。
だから、判定不能、病識以前の問題であるが、病識の有無の判定を求められるのであれば、客観的観察だけから、病識がないと判断する。自分から、適切な治療を求めたりすることができない状態だからである。したがって、医療保護入院の入院届では、主観的に確認できない場合でも、客観的症状から病識がないとするのは妥当であるとしたい。