逆説的に生きる その2 キリスト教1
浄土真宗の方から、この逆説の生き方の考察を始めました。公正を期すために今度は、キリスト教の新約聖書の方に行きましょう。私は、クリスチャンではありませんので、キリスト教徒の方々がみると間違っていることになるかもしれませんが、そこのところはお許しください。独自の解釈です。
ともかく、新約聖書の中には逆説的な教えが多いです。
マタイによる福音書 第5章 イエスは、群衆に語りかけます。
こころの貧しい人は、さいわいである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人は、さいわいである。
彼らは慰められるであろう。と続き、・・・・・
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたはさいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。
悲しんでいる、迫害される、ののしられ悪口を言われる、などは普通の考えでは不幸なことに違いないです。ところが、逆説的に さいわいであるとなっています。
第5章の後半にもあります。
「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしは、あなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。
隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことはあなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつしたからとて、何のすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
旧約聖書では
旧約聖書では出エジプト記21章23節に、争いの時の報復とか処罰とか取り扱いについて長々と書かれています。「ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない・・・・・」
申命記19章21節には、「あなたがたは彼が兄弟にしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなた方のうちに行わないであろう。あわれんではならない。命には命、目には目を、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない」。
新訳第9章にも逆説的な記述があります。
第九章 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と似てますね。
米国大統領の就任式で、新大統領は、聖書に左手を置き、右手をかかげて宣誓します。トランプの聖書には旧約聖書しかなかったのでしょうか。
バイデンはどうか
トランプと習近平の貿易戦争は、「目には目を歯には歯を」そのものでなかったか。
第16章の逆説的表現
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。
第20章の逆説的表現
ある家の主人が、ぶどう園の労働者を雇ったが、朝から働いていた者に1デナリの賃金を出したが、夕方に仕事について、1時間だけ働いた者にも1デナリの賃金を払った。すると、朝から働いていた者は、何で同じなのだと文句を言うわけです。主人は、「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当たり前ではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」このように、あとのものは先になり、先の者はあとになるであろう。
異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなた方の間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。
あなたはどう思いますか?