生き方を妙好人に学ぶ その3 源左
生き方 妙好人 学ぶ という目的で3回目になりました。妙好人とは、浄土真宗の熱心な信徒で、悟りを開いた覚者です。その一人である「因幡の源左」について学んできましたが、今回は、源左の実際の言動から彼の生き方を学びましょう。
柳宋悦が、昭和5年に源左が亡くなってから、昭和30年頃、鳥取県で源左と交流のあった方々に直接聴取したり、願正寺に伝わる記録を衣笠一省住職から調べたものが「妙好人 因幡の源左」に書かれています。私が読んでいるのは昭和35年に出た改訂版です。できるだけ方言をそのまま残したとしています。
源左が18歳の時に父親が急死し、その死に際に「おらが死んだら親様をたのめ」と言われ、親様とはだれか、どうたのむのか、それがわからず、長い間悩みます。特に父親が死んだ秋の初めから翌年の春まで半年間は、夜も昼も思案して、仕事が手につかず、翌春になって、ようやく目が覚めて、すぐ隣にある浄土真宗の願正寺の住職に聞いたり、本山の本願寺まで足も延ばすようになりましたが、「しかられたり、どまかされたりして」はっきりはわからなかったと言います。それでも農作業は熱心に行い、母親の面倒もよくみていたようです。19歳の時に勤労、人徳などからはじめての表彰を受けています。
それから10年以上を経たある年の夏、30歳頃、未明に牛(方言でデン)を追って草刈りに行ったときのことでした。「牛の背の左右に2把の草を背負わせ、あと、1把は自分が背負ったが、重くて苦しくて、やはりデンに背負ってもらったらストンと楽になって、ふいっとわからせてもらった。これがお他力だ、親さんのご縁はここかなあ」という体験をします。源左は、人の肩をもみながら、灸をしながら、あるいは人の荷物を持ってあげながら、この話を何人にも法話として話していたようです。幻聴のような「お前は何をくよくよしているのだ。仏にしてやっとじゃないか」など如来さんの声もあったといいます。これは法蔵菩薩が修行により成った阿弥陀如来の声です。その時はうれしかったといっています。そして、その体験を願正寺の住職に話したら、「そこだ源左」とお墨付きをもらったのです。それから、「世界が広くなったようで安気になった」と言っています。
近所の娘が自分の人生に悩んで、どうしたら楽になれるのかと源左に聞くのですが、「自分も自分がこしらえたものじゃないからわからない。凡夫にわかるということはないだろうから。わからないままで行くしかないだろう、そろそろならわかるだろう」などと言います。
源左の他者に対する優しい態度がさらに徹底したものになっていきます。ある秋の日に畑に行くと芋が掘った形跡があった。これは手を怪我させてはいけないと、源左は鍬をそこに置いておきました。
母親から芋を掘ってきてといわれて自分の畑に行きますが、ちょうど誰かが掘っている。源左はそのまま家に帰ってきます。母親に芋はどうなったのかと聞かれると、今日はうちの掘る番じゃないようだといいます。
源左がだれが、柿の木に茨をくっつけたんだといったところ、息子の竹蔵が、そりゃおらだけど、若い者に取られてしまうからだといいます。源左は、人の家の子にけがさせたらどうするんだと言って、茨を外し、代りに梯子をかけたといいます。竹蔵は、梯子を置いておけばいくらでも取られてしまうと言いましたが、源左は、人がとってもやっぱり家の者が余計食べるだろうからいいのだと言います。
ある時見知らぬ馬子が源左の大豆畑に馬を入れて、豆を食わしていました。源左は「馬子さん、先の方にもっといい豆があるから食わしてあげなさいよ」と言ったが、馬子は逃げるように帰ってしまったそうです。源左は、牛はもとより馬や他の生き物から虫まで大切に扱ったようです。馬子が馬を大切にしていることがわかったんでしょう。それに、源左はその馬を自分の馬のように思っていたのかもしれません。
源左の生まれ育った因幡の山根は、紙の産地です。源左の山に作ったかご(こうぞ)をしこたま束にして背負って盗もうとした男が重くて立ち上がれない。源左は何と後ろに回って力を貸して担がせてやります。立った拍子に源左だとわかって、泥棒は逃げていったと言います。
ある時、源左が寝ていると、ごそごそ音がひさしの方から聞こえてくる。若い者が干し柿を盗みに来ていたが「間違わないように、いいところをたくさん持っていきなはれよ」と源左は言います。自他の所有という区別がないのかもしれませんね。
源左が、紙を売った金を持って山道を歩いて自宅へもどる途中、前科者の男がついてきて、峠にさしかかったところで「金を出せ」と迫ります。源左は、「ほしけりゃやるが、まず、如来さまのことを聞いてくれ」と言い、法話を始めます。男は源左の人柄に手を出せなくなり、夜になったので、源左は男を自分の家に入れ家内に食事の支度をさせ泊めてやりました。朝は人目につかないうちに弁当をやって、いくばくかの金までもたせということです。男は源左を拝んだというエピソードがあります。
盗人の話は何人かの人が聞いていて、強盗は静かな源左の態度に「お前さんの様な人にはまだあったことがない」と言います。そして、源左も「おらもお前さんのような人にまんだあったことがないがやあ」と言います。
いつもの源左の口癖は、「ようこそようこそ、なんまいだぶなんまいだぶ」でした。ありがとう、ありがとうと言って状況を肯定的に受け入れ、阿弥陀如来のおかげ、親様のおかげと感謝します。
これら一連のエピソードからわかることは、源左は、人の欲しがる物を与えてしまう。それも、何かとの交換でなく、盗人のような悪人と呼ばれるような人にも見返りなくあげてしまう。これは、以前紹介した、レ・ミゼラブルのサミュエル神父の行動と同じですね。自己中心性のかたまりの脱獄してきたジャンバルジャンは銀の燭台を盗んで捕まりますが、私があげたものだ、もっともってかないのかと警官の前で彼に言います。それによって、ジャンバルジャンは、すさんだ心を捨て、自分も人を愛する人になるのです。
日本では、良寛の振る舞いがこれに似ています。良寛は曹洞宗の僧でしたが、北陸の山の中の五合庵という小さな小屋に住んでいました。物は何もないのですが、冬に布団で寝ていたところ、泥棒が入ってきて、何か物がないかと物色していることに気が付いた良寛は、わざと寝返りを打ったふりをして布団から抜け出ます。泥棒は布団を持って出ていきます。布団を持っていくなんて、よほど苦労している泥棒だろうと良寛は同情するのです。
これは、どういうことでしょう。人間は汗水たらして働いて得たものは自分のものであり、無償で他人に譲ったりしないものです。それではせっかくの努力が報われません。努力した人はそれなりの結果が与えられるという法則が私たちの意欲を支えています。過信したり、落ち込んだり、不平のかたまりになったり。でも、源左は違います。報われないことを受け入れる。それもしかたなしに受け入れるのでなく、積極的に受け入れる、無償で捧げ、与え、犠牲になります。資本主義社会の中では源左の行動は不思議です。努力は報われないということを源左はすすんで受け入れるのです。世間からは、悪者だといわれているような人たちになぜか親切にする。親切になんか一度もしてもらったことがない人たちに。だから、人生を変える決定的な出会いになってしまいます。ガンジー聖書といわれる「獄中からの手紙」の中に「犠牲」についての手紙があります。
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