生き方を妙好人に学ぶ その4 天香

 妙好人と言われた因幡の源左 の言動を紹介してきました。その3では、源左の特徴である「無償で捧げる」ということについてご説明しました。今回は、また、別なエピソードについて、柳宗悦の収集した記録から抜き出してみます。

 京都の「一燈園」という新興宗教の団体がありました。西田天香という人が明治の終わりころに創設した団体です。私は、この一燈園という名を聞いたことがありました。私の父はサラリーマンで新聞はよく読んでましたが、読書はあまりせず、茶の間の本棚に、数十冊ほどの蔵書があっただけでした。その中に、昭和5年に設立された新興宗教である「生長の家」の創始者である谷口雅春の「生命の実相」シリーズの何巻かが置いてありました。どのように父が生長の家を知り、本を持っているのか聞いたことはありません。中学生か高校生の頃、私はたまたまその本を手に取ってみたのですが、どういうわけかとても心惹かれてしまいました。やがて精神科医になる人にありがちな悩み多い青春を送っていた私ですので、そこにうまくはまったのかもしれません。早稲田大学を出た谷口雅春の言葉は偏りがなく、非常な勉強家・努力家であり、何か心に響くものがあります。その書の中で、谷口は彼が影響を受けた人々を紹介しているのですが、その一人に、一燈園の西田天香がいました。天香も谷口と同様に、極端に偏った考えではなく普遍的な思想体系の持ち主であったと思います。

生き方 妙好人 学ぶ 源左 精神科
山梨 6月 高原

 私は大学に入学して家を離れましたし、長い間、生長の家のことも、谷口雅春のことも、西田天香のことも忘れていました。再び出会ったのは、京セラの会長だった稲盛和夫の自叙伝に、彼が高校生の頃、沈鬱な気持ちの中で、親戚の家に置いてあった谷口雅春の生命の実相を読んで、救われたということが書いてあったからです。稲盛のような最強の経営者でも、大学受験、就職なども思うようにいかず、重苦しい日々だったといいます。私が稲盛の本を読むようになったのは、病院の経営者になったので、経営の神様の本を勉強せざるを得なくなったからです。しかし、稲盛は実業家であるのに不思議と哲学的、宗教的な人ですね。休みの日は哲学書を読んでいるというのですから。元祖経営の神様である松下幸之助もPHPなんて作るのだから、やはり、人間としての在り方とか、徳性とかに関心のある人なのですね。経営者がどのような心理構造をもっているのか、その精神病理学も将来やってみたいと思います。ああそういえば、ドラッカーは言ってますね。経営に成功した人の共通点は何か?と問われたとき、その答えは、経営に成功したという事実だけだと言っています。そんなことないと思いますけどね。

 さて、本題に戻りましょう。山陰地方のある町の有志が、京都の西田天香に講演を依頼しました。源左も同行(浄土真宗の信者)から案内をもらい、18里も離れた町まで汽車と徒歩とで向かいました。源左は病人に灸を頼まれて、会場に着いた時には講演会は終わっていました。
 天香も遠くから来た源左を気の毒に思って「お爺さん、あんたは遠くから来たのに間に合わなかったそうで悪かったなあ。歩いてきたそうでしんどいことはないかなあ」と言うと、源左、「ありがとうござんす。先生様こそ遠くから来られて、おら共に良いお話をなさったそうで、さぞ肩が凝りでせうがやあ。打たせてつかんせ」と言いながら肩をもみ始めました。
 源左、「今日のお話はどがなお話でござんしたな」。天香、「お爺さん、年が寄ると気が短くなって、よく腹が立つようになるもんだが、何でも堪忍して、こられて暮らしなされや。そのことを話したんだが」


 源左、「おらは、まんだ人さんに堪忍して上げたことはござんやせんやあ。人さんに堪忍してもらってばかりおりますだいな」。天香にはこの答えが一度ではわかりかね、「爺さん、何と言はれたか、今一度いふてくれんかな」。源左、「おらあ人さんに堪忍して上げたことはないだけつど。おらの方が悪いで、人さんに堪忍して貰ってばかりおりますだがやあ」さすがの天香もおどろいた様子だったらしい。

西田天香 一燈園のホームページから

 同じエピソードを別の人はこのように話しています。大正11,12年頃、西田氏を招いて光専寺という寺で講話があった。源左は病人に灸などしていて遅くなったらしい。この時、源左は源左は80歳くらい、天香は50歳くらいです。肩をもみながら、「先生様、今日はどがな話をなさったかな、かいつまんで話してつかさんせいなあ」。天香、「ならぬ堪忍するが堪忍ということでなあ、堪忍ならぬ所から先を堪忍するのでなければ、堪忍したといえない。皆、堪忍しあって暮らそうということをお話ししましたよ」。

 これを聞いた源左、「ありがとうござんす。おらにや、堪忍してくれるお方があるで、する堪忍がないだがやあ」。この時同席された松尾氏のお話では天香は、「私が肩をもんでもらうような爺ではない」と言ったそうです。さらに天香が帰られるとき源左に、「あんたもせい出してお念仏申して、よい仏になんされや」と言うと、源左、「先生様、何をおっしゃるだいなあ。おらがやあな低下(ていげ)の泥凡夫に、何が仏になるやあな甲斐性がござんせうに。だけつどなあ、親様が仏にしてやるとおっしゃいますだけに、仏にしてもらいますだいなあ」。

 天香は、自分を捨て、他者に奉仕する、その中に生きる、そのためには自力の努力がいるということを言うのですが、源左は他者のために生きるのは同じだけれども、自分の努力などあてにできず、そうさせてくれる親様がいるということを言っています。源左の言葉には、堪忍する力のない凡夫、自力で仏になれない凡夫と、それを助けることによって如来となった親様が同時にあるといえます。しかし、源左はなぜ、わざわざそう言ったのでしょう。ほんの少しだけ、天香を困らせるような結果になっていますし、自分の悟りを開示したいという欲にも思えます。しかし、源左が言ってくれたので、こうして、後世にまで影響を与えたともいえるでしょう。

心の深淵を埋めるものの、流れる、創造が生まれる

 しかし、こうして偉人と言われる人をみてみると、何か心の中にぽっかりと穴が開いていて、そこから、大切なものが流れ出てしまい、いつまでも心の渇きが癒えないような人にもみえます。その渇きを埋めるために、一生懸命努力する、成果や名声を得ようとします。あるいは、何かを創造しようとします。それによって、少しだけ心が満たされるものの、また、穴から大切なものが流れ続け、うつ状態に陥ります。アルコール依存になるかもしれません。それを最終的に埋めてくれるのは、悟りとか、確固とした信仰とか、自己の放棄とか、革命的な思想とかなど本当のことだけなのかもしれません。そして、その過程で、いろいろな作品なりの生産物が生まれてくるということなのでしょうか。