うつ病になった二宮金次郎 その1

 今日,車いすの母と桜が満開のお寺に行ってきました。そこで,突然,作業衣を着た男性が「どうぞ」と言って母に花のついた枝を渡してくださいました。その方は寺の植木職人の方で,「私なら(切っても)問題ないので」と言い残して,風のようにさっとどこかへ行ってしまいました。ありがとうございました。うれしいです。2019年3月


これです

 二宮金次郎(二宮金治郎,二宮尊徳)ですが,40歳代のころに,うつ病と思われるような状態になったと私は考えています。私のほかに少なくとも2人の精神科医(いずれもきわめてすぐれた)が,金治郎について病蹟学的研究を行っています。その2人はどちらかというとうつ病説に反対の意見です。

では,私がうつ病と考える根拠を少しずつ説明していきましょう。

 内村鑑三(1861-1930)のことはご存知でしょうか。明治時代には珍しいクリスチャンであり,米国に留学し,「代表的日本人」を英語で書いて欧米人に日本の偉人を紹介しています。ケネディ大統領に日本の記者が「尊敬する日本人はいますか」と聞いたことがあります。ケネディは何と答えたと思いますか? ケネディは,上杉鷹山の名前を挙げたのです。彼が東北米沢藩の鷹山を知っていたのはなぜでしょう。おそらく鑑三の「代表的日本人」(Japan and the Japanese)を読んだか,あるいは読んだ人から聞いたからだろうと思います。その「代表的日本人」に鑑三が選んだのは,上杉鷹山のほか,西郷隆盛,中江藤樹,日蓮,そして二宮金次郎です。

金次郎

 では,その二宮金次郎についてお話させていただきます。金次郎については,彼の生家跡まで行っていろいろ調べたことがあります。まず,概略をお話ししましょう。金次郎は,小田原の農家に生まれ,勤労や工夫を重ね,二宮本家や小田原の家老服部家の再興に成功して世に認められました。藩主大久保忠真の命により,金次郎は小田原藩の領地である荒廃した栃木県桜町の復興事業に取り組み始めたのです。


金次郎の生家

 金次郎は,大きな体で心身ともに強壮でしたが,40歳代の初め,桜町の復興が思い通りに進まず,休職した後に職務を放棄し失踪しています。この時,うつ病に罹患したのではないかと私は考えています。3か月に及ぶ失踪の終わりころ,成田山新勝寺で断食中に開眼したとされ,現在も成田山には金治郎開眼の地が石碑とともにまつられています。桜町にもどった金次郎は復興を成就させた後,600か所以上の農村の再生に関わりました。また,飢饉を予知し,適切な行動をとって多くの生命を救い,野州聖人とたたえられた金次郎は,教育,思想などの面でも後世に多大な影響を与えたことは皆さんご存知の通りです。

金次郎開眼の地(成田山新勝寺,付近にうなぎ屋多く,犬と入れるうなぎ屋でいただきました)

 では,次に生活歴をお話しします。金次郎は天明7年(1787年)現在の小田原市栢山(かやま)に父利右衛門,母よしの長男として生まれました。太平洋に注ぐ酒匂川近くの農村です。栢山の善人と言われた父利右衛門は先代からの相続時には所有田畑が2町3反(約22,000㎡)あり中農でしたが,酒匂川の洪水や病気により田畑を売却し,金次郎満14歳,享和2年(1802年)の時には所有地は7反(約7,000㎡)にまで少なくなってしまいました。金次郎は,この年,父親に次いで母親と死別,さらに同年,金次郎は2度目の洪水で所有地を失い,兄弟3人は離れ離れに親戚に引き取られました。金次郎は伯父万兵衛家に引き取られました。現在,金治郎の家も,万兵衛の家も当時のままに再建されていますが,すぐ隣です。金治郎の伝記(報徳記)を書いた冨田によれば「万兵衛なるもの性甚だ吝にして慈愛の心薄し故に先生の艱苦極れり」とされています。具体的にはどう書かれているかと言うと,「金次郎は昼に万兵衛の家業を勤めたのち夜学をしたところ,燈油を費やすことを戒められた。金次郎は,川べりの土地に油菜を蒔き,得た菜種で燈油を購入して夜学を続けた。しかし,万兵衛は勉強を無駄とし夜は縄をなうように言うため,金次郎は日中の労働の後,夜には縄をない,むしろを織り,深夜より密かに文字を学び読書した」とされています。しかし,著者の冨田(娘の夫)は金次郎を深く尊敬していたので過剰に解釈したのでないか,どの程度本当だったのかと疑う人もいるようです。

酒匂川,金治郎の家はこの土手の左手少し離れたところにあります。
丹沢や箱根に源流があります

 15歳の時,畔に放置された捨て苗を用水堀に植えたところ,思いのほか実りが良く収穫を得るとともに,これを種として貸し付けを始めました。勤労による所得を倹約により後世に譲るという「推譲」や小さいものを積み重ねていく「積小為大」という金次郎が大切にした法則をつかんだとされます。16歳(文化2年,1805年)から日記万覚帳(家計簿と覚え書)を記載し始めました。金銭の貸借も増え,何と万兵衛にも金を貸しているほか,廃屋になっていた実家を修理して戻ることもできました。小田原時代の20歳前後に金次郎は師事して俳句を学びはじめ,桜町時代以降には道歌に自らの課題と日々の思惟を託し,日記等に600首以上の道歌を残しました。道歌とは,教訓的,道徳的な短歌のことです。

 文化9年(1812年)金次郎24歳の時,小田原藩家老服部十郎兵衛は多額の借金のため困窮していました。ある人が,金次郎が貧困に生まれながらも努力の末一俵の米から家を再興し,しかも思いやりの心が厚いとし,金次郎への依頼を勧めました。再三の依頼により,金次郎は服部家の家政再建を担うことになりました。今で言えばコンサルタントでしょうか。金次郎は実収入に対する支出可能額を計算によって求め,その「分度」を服部家が守るべきとしました。また,困窮する藩士や使用人に対しては「無利息貸付」を発想して救済しました。服部家は5年間で1,000両の借金を完済し,十郎兵衛は金次郎を褒めたたえたとされています。金治郎は道徳的な意味で聖人とみんな思っていますが,彼は数学ができたことが大きいと思います。こういう偉人はほかにもいます。例えば,ナイチンゲールは天使のような思いやりのある看護師だというイメージがありますが,彼女の最高の持ち味は数学的な考え方であり,統計学で細菌感染のことを突き止めて成果を上げたということがあります。

 文化14年(1817年)29歳時にきのと結婚。31歳時に生後間もない長男徳太郎を失った後,きのは自ら実家に戻り離婚しました。きのには金次郎のことが理解できなかったのかもしれません。それが普通でしょう。金次郎は32歳時に服部家上女中のなみと再婚しましたが,なみは金次郎の行動理念を理解することができたようで生涯支えました。

 小田原藩主大久保忠真は,幕府の老中職にあり名君の評判が高く,傑出した才能を持つ金次郎を藩政に参画させたいと考えましたが,平民を藩士中の上位に据えることに家臣たちが反対していました。男の嫉妬もたいへんなだったようですね。同時期,分家である旗本宇津釩之助の領地,桜町領(栃木県真岡市)4,000石の荒廃に忠真は頭を痛め,有能な家臣を送り復興を任じましたが,すでに数人が失敗し,4,000俵の年貢米も800俵まで減少し宇津家は窮乏していました。桜町の復興を金次郎が成し遂げれば,金次郎に小田原藩の藩政を担当させることができると忠真は考え,金次郎に依頼しました。金次郎は3年間固辞しましたが,忠真の考えを受け入れ,文政4年(1821年)桜町仕法が始まりました。金次郎の慎重な性格が表れています。農民の登用は珍しく,待遇は五石二人扶持(年間米約20俵),名主役格であったとされます。 

 金次郎の思想の形成について述べます。明治以降広く作製された金次郎像を皆さんご存知だと思います。金次郎が手にする書物は「大学」とされていますが,金次郎は四書五経に精通していたことが二宮翁夜話等の記録で明らかです。また,貝原益軒の「大和俗訓」を複数冊購入していることが日記から分かりますが,「積小為大」に近い表現が同書にあり,益軒からの大きな影響も受けています。貝原益軒はまたすごい日本人ですので,後日ご紹介したいと思います。(最近,岩波文庫から大和俗訓がリクエスト復刊されました!)また,金次郎は,儒教以外にも仏教,老荘,神道や俳句も高い水準で認識していたと思われます。一方,金次郎は,「音もなく香もなく常に天地は書かざる経をくりかえしつつ」とも詠い(夜話に確か数か所載っています),金次郎には,自然界の真理や実践を書籍より重視する姿勢もみられます。

 生活習慣についてですが,武家屋敷に住んだ文化8年の年間の酒の購買量は一升に満たないそうで,「酒を飲むのは月に4,5度に限り,酒好きになってはいけない」と夜話にあり,飲酒量は少なかったようです。食生活は,小田原時代には魚介類の購入記録が日記にしばしばありますが,桜町においては,農民と同等の飲食を望み,「食は一汁のほかを食せず,外での食事は冷飯に水を注ぎ味噌を嘗めて食するのみで,村民のすすめるものを一切食べなかった」といい,桜町時代は小田原時代より粗食であったようです。「聖人」と食事習慣には関係があるように思います。マザーテレサは,修道院からカルカッタのスラムに単身で出ることを決心した時,米と塩だけの食事にしようとしましたが,周囲のシスターに止められたという記録がみられます。ガンジーも肉食をしないことにこだわりましたし,何度も断食をしており,自伝には「ピーナッツを食べ始めたらやめられなかった」とか食事のことが多く書かれています。それから,千日回峰行を2回繰り返した 酒井 雄哉もうどんしか食べなくなったそうです。しかし,一般の人がやると無理だからということですすめていません。

  二宮翁夜話にも美食を控えるよう説諭する記載があり,「飯と汁木綿着物ぞ身を助く その余はわれをせめるのみなり」と金次郎は詠っています。金次郎はもともと睡眠時間を削って読書に励んだとされますが,桜町では天候によらず未明からの廻村を継続し,睡眠は1日4時間程度だったらしいです。若者には眠らずにわらじを編むことなどをすすめていることが夜話からわかります。これらの貧しい食生活や少ない睡眠時間という著しくハードな生活が,後述するうつ病罹患に関与した可能性も考えられます。

*「仕法」は,一般には「物事を行う方法」を意味する。ここでは,支出限度を示す「分度」の設定や余剰分を将来等に譲る「推譲」などの具体的手段を用いて,金次郎が家や藩の行った財政再建の方法。