道元の言葉  正法眼蔵随聞記

 

 正法眼蔵随聞記は、親鸞の弟子である唯円が書いた歎異抄と並んで、わが国が誇るべき仏教古典の一つであると考えられます。道元の弟子の懐弉(えじょう)は、よくぞ書き留めてくれたなと思います。自分の役割に徹したのでしょう。その随聞記の前半から、気になるところを取りあげてみました。水野弥穂子訳を引用させてもらいました。

 俗世の帝王の道の秘訣を説くのに、「心をむなしくしていなければ忠言を受け入れることができない」と言っている。その意味は、自分の考えをすてて、忠臣の言葉に従って、道理のままに帝王の道を行うのである。達磨門下の禅僧が仏道を学ぶ秘訣もまた、この通りであろう。もし自分の考えを持っていると、師匠の言葉が耳に入らないのである。師匠の言葉が耳に入らなければ、師匠の法が身につかないのである。

十日町

 真実の得道ということも、これまでの心身を投げ捨てて、ただまっすぐに師匠の教えについてゆけば、それがとりもなおさず真実の仏道の人なのである。

 世間の人はたいてい、もともと、人から立派だと言われよう、思われようと思っている。その心があるから、立派になることができないのである。ただ自分に対する執着をだんだんに捨て指導者の言葉にしたがっていけば、進んでいくのである。「あの指導者は、道理のわかったような事を言うが、それはそうであるけれども、自分はこれこれのことは捨てかねる」と言って執着し、一つのことを取り上げて身に着けようとすると、いよいよ下落するのである。

白河

 広く学び、博く書物を読むことは、到底できるものではない。すべて思い切ってやめるがよい。ただ、一つのことについて、心得や秘訣を習い先輩の修行のあともよく調べて、一つの行に専心努力し、人の師匠ぶったり、先輩顔をしないことである。

 在俗の人でさえ、すぐれた人は、自分がその任にある者として当然のはたらきを発揮するだけである。それによって代償を得ようとは思わない。仏道を学ぶ人の用心も、こうあるべきである。仏道に入った上は、仏法のためにさまざまなことを行って、代わりに何か得るところがあろうと思ってはならない。仏教や仏教以外のさまざまな教えに、みな、所得があってはならないと勧めるのである。

麻布

 死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である。わずかに命のある間に、何かわざを身に着け、何かをとりあげて学ぼうと思うならば、ただ仏道を修行し、仏法を学ぶべきである。

 文章を作ったり、詩歌を詠んだりなどは、結局役に立たない。これらを捨てるべき道理は言うまでもない。
 ただ一つのことを専一に行うことでさえ、生まれつき力の劣った者にはできはしない。まして多くのことを同時にして、心やそのはたらきを静かにしないのは」、いけないことである。

 達磨門下の法席で禅話を聞いてよく理解会得する秘訣は、自分が今まで理解し、考えていた気持ちを、指導者の言葉に従って順々に改めていくことである。指導者が、もし仏というものは、ひきがえるやみみずであると言ったら、ひきがえるやみみずを、これが仏であると信じて、平生の知識を捨てるのである。

 ところが、近頃の道を学ぶ者は、自分勝手な物の見方を絶対捨てず、自分の考えとあわない時は、「仏はこんなふうであるに違いないのだが」と言い、また、自分の考えているところと違うと、「そうではありますまい」などと言って、自分が勝手におしはかったところと似通ったところがありはしないかと、あちこちと迷いまわるから、ちっとも仏道の進歩がないのである。

 また、自分の身をだいじにして、指導者が「百尺の竿の先に上がって、手を放って一歩進め」というと、「仏道を学ぶ者も命あってのことだ」と言って、指導者に心からしたがわないのである。このことはよくよく思いめぐらせるべきである。

幸手

 世俗の人はたいてい善い事をする時は人に知られたいと思い、悪事をする時は、人に知られまいと思う。そこでこの気持ちが、目に見えない世界にいる諸天や閻魔王などの心にかなわないために、善い事をしてもよい報いがあらわれず、人知れずやった悪事には罰が下るのである。そうした自分の経験から、かえって、「善い事をしてもいい結果はあらわれない。仏法のご利益はないものだ」などと思っている。これがとりもなおさず間違った考えである。まずはこの考えを改めなくてはならない。
 だれも知らない時に、ひそかに善い事をし、悪いことはしたらあとで告白して罪を悔いる。このようにすれば、人に知られないようにした善事は神仏に通じ、告白して知られた悪事は懺悔が行われて罪が消滅する。

 一人の在家の人が来て言った。「近ごろ在家の者が僧たちを供養するとたいてい縁起でもないことが起こるので、仏法僧の三宝に帰依するのはやめようと思いますが、いかかでしょう」。

 それは、坊さん方や仏法の罪ではない。在家の人たち自身が招いた罪である。そのわけは、こうである。見かけばかり戒を保ち、正午前一食の作法を守る様子を見せる僧をありがたがって供養し、戒を破って恥を知らない僧が酒を飲んだり肉を食ったりするのを、道に外はずれたものだと思って供養しない。この分け隔てする心が、実に仏の心に背いているのである。だから、帰依し敬っても功徳はなく、神仏にも通じないのである。
 出家の仏弟子とあれば、徳の有り無しを問題とせず、ただ、供養すべきである。特に、その姿かたちによって内にある徳の有り無しをきめてはいけない。

 だから立派なお坊さんだとか、悪いお坊さんだとか差別して考えることなく、仏弟子とあれば、その点を尊敬して、差別のない気持ちで供養もし、帰依もしてうやまったならば、必ず仏の心にもかなって、ご利益も直ちにあるに違いない。

幸手