道元の言葉 正法眼蔵随聞記より その2

道元は弟子たちに対してこのように言っています。
 なくなった栄西禅師(1141―1215、臨済宗の祖)は、「あなたがた修行者たちが使っている衣類や食料などは、わたしがあげているのではありません。これはみな仏法を守る神様たちが供養してくださるのです。わたしはただ取り次ぎ人にあたっているだけです。また、あなたがたが、一生の間に必要なものは、生まれつき備わっています。余分に手に入れようと走り回ってはいけません」これはこのうえなく立派な言葉だと思っていると道元は言います。

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 また、宋国の宏智(わんし)禅師が住せられた天童山は、寺の経済は1000人の費用をまかなうものだった。しかし、修行僧が各地から集まり、1500人を超えた。役僧が申し出て、「費用が不足してしまいます。他の寺に行ってもらいましょうか?」といったところ、宏智禅師は、「人はめいめい口を持っている。おまえの仕事と関係はない。心配するな」と言われた。・・・「だから、仏道を学ぶ者は、ほかのことに心をとめないで、ひたすら道を学ぶべきである」。

 同じような言葉が聖書にもあります。

 何を食べ、何を飲み、何を着ようかと心配するな。・・・天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる。だから、まず神の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて与えられる。(マタイ第6章)

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 夕方、弟子たちがそばに来て、「もう時もたちましたから、群衆を去らせ、村に行って食べ物を買わせてください」と言った。イエスは、「帰らせるには及ばぬ。お前たちが食べ物をやるがよい」と言われた。弟子たちは、「私たちはパン5つと魚2匹しか持っていません」と答えた。イエスは・・・群衆を草の上に座らせよと命じ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにわたされた。弟子たちはそれを群衆に配った。一同はそれを満腹するまで食べた。残りを集めたところ十二のかごにいっぱいになった。食べた人は女と子供を除いておよそ五千人だった。(マタイ第14章)

 ガンジーは、こう言います。真理の探究者は、明日に備えて何一つ貯えてはなりません。神は明日のために貯えるようなことはしません。言い換えれば、神はその時々にどうしても必要なもの以外は、決して創造することはありません。したがって、もし私たちが神の摂理を信じるなら、神は日ごとに日常の糧を、ということは、私たちが必要とするすべてのものを与えてくださることを確信していなければなりません」。(ガンジー 獄中からの手紙)

 病院では食料や水を備蓄しています。でもいいのか、病院は真理の探究者ではないから。

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道元に戻りましょう。
 志が徹底しないのは、無常ということをよく考えないからである。われわれのからだは刻々に片端から死んでいっている。どこまでいっても少しの間も一定な状態を保ってはいない。生きているわずかの間に、時をむなしく過ごしてはならない。

 人間は、自分を恒常的なものだと思い込んでしまいます。ところが、真実は異なると道元はいいます。一日一生 内村鑑三 一日一生 酒井雄哉というのもあります。

 人が仏の教えをたずねることがあったり、修行の方法をたずねることがあったら、達磨門下の禅僧は、必ず真実をもって答えるべきである。初心の人や、まだ真実の法を聞いたことのない人には、わからないだろうといってかりの手だてや、真実でないことをもって答えてはいけない。・・・・だから、相手が理解するかしないかは問題とせず、ただ、真実をもって答えるべきである。もし、教えをその通りに聞ける人が聞いたならば、実徳の人は実徳をもって法をさとることもできるであろうし、仮徳(けとく)でもって法をさとることもできるであろう。姿かたちのよしあしや表に見える徳でもって人をみてはならない。(1-8)

 昔、孔子のところへ一人の人が従者になりたいと言ってやってきた。孔子は「お前は、どういうわけでわたしの従者になろうというのか」と聞いた。その男は、「あなたさまが宮中へおいでになるとき、いかにも立派で勢いがありました。それであなたさまのお身内になりたくてまいりました」すると孔子は、弟子に命じて乗り物、衣装、金銀、財宝等を取り出して与え、「お前はわたしに信服して来たのではない。この衣装に恐れ入っただけだ」。
道元は孔子のことまで引用しています。そういえば、白隠も儒教ことを引用しています。こだわりないですね。一方、空海は「三教指帰」で、ケーススタディ?を行い、仏教が儒教や道教より優れているとしています。いろいろです。

2022年4月

 宇治の関白殿(藤原頼道)が、あるとき、宮中の鼎殿(かなえどの)にはいって、火をたくところを見ておられた。それを鼎殿の役人が見つけて、「むやみに宮中の鼎殿にはいっているのは何者だ、こんなところにいてはいけない」と言って追い出した。関白殿はそこで、前の見苦しい衣服を脱ぎ、関白の装束を正しくつけて、こごそかに、出ておいでになった。するとさっきの鼎殿の役人は、恐れ入って逃げてしまった。その時関白殿は、関白の装束を竿にかけて、うやうやしく拝された。おそばの人がその理由をたずねると、「わたしが人から尊重されるのも、自分にそなわった徳のせいではない。ただ、この衣装のおかげである」と言われた。頭の粗雑な人間が人を尊重するのは、せいぜいこのようなものである。(1-8)

 マザーテレサが、あのような働きができたのは、イエスがみすぼらしい格好で来ているということが分かっていたからでしょう。そのことに普通は気が付かないものです。

 どの仏もどの祖師も、皆もとは凡夫であった。そして凡夫の時には必ず悪い行いもあり、悪い心もあった。にぶくもあり、ばかでもあった。しかし、皆それを改めて、指導者に従い、仏の教えと行いとによって修行したので、みな仏となり祖となったのである。(1-13)

 今ダメ人間でも志をもとう。ガンジーも凡夫でした。

アイスバーグ

「心をむなしくしていなければ忠言をうけいれることができない」と言われている。その意味は、自分の考えを捨てて、先生の言葉に従って、道理のままに道を行うのである。達磨門下の禅僧が仏道を学ぶ秘訣もまた、この通りであろう。もし、自分の考えを持っていると、師匠の言葉が耳に入らないのである。師匠の言葉が耳に入らなければ、師匠の法が身につかないのである。

 人間というのは不遜なものです。相手が道元であっても、自分の考えとはここが違うなどというのですから。ましてや、世俗の子弟関係などは推して知るべきでしょう。(1-14)

 親鸞はこう言っています。「ただ、念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然上人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません

 なぜなら、他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、だまされたという後悔もあるでしょうが、どのような行も満足に修めることのできないわたしには、どうしても地獄以外の住み家はないからです」。

 親鸞にしてこうなのですから、汚辱にまみれている私たちが自分の力もわきまえずに勝手なことを考えるのはとんでもないことなのでしょう。