精神科医の独語と毒語

アメリカ大統領

 アメリカの大統領に共通することはなにかというと、高身長ということらしい。リンカーンは、193cmまたは197cmといわれ、トランプは自称190cm、バイデン182cm。アメリカ大統領になれるかなれないかに、人格は関係ないそうだ。2024年11月

偉人の妻

 第16代米国大統領のリンカーンは、奴隷制度を廃止した。それには、非常に多くの困難があった。一方、リンカーンの妻メアリー・トッドは、南部の裕福な家庭で育った。もちろん奴隷もいて快適な生活をしていた。リンカーンは奴隷制度に反対して戦っていたが、一方、妻は、奴隷制度を便利なものと考え、ひそかに存続を望んでいたようだ。

 二宮金次郎の最初の妻きのは、金次郎が何を求めて忙しくしているのかわからなかった。別れて実家に戻った。金次郎は多くの財産を分けた。

 世界の偉人でも、多くの場合妻には理解されないものだ。凡人が妻に理解されないといっても少しも驚かなくてよい。2024年10月

雨傘の重大な欠点

 雨の日に思った。体が雨に濡れないようにするためには、傘の中心に頭と体を置きたい。しかし、そこに実に邪魔なものがある。傘の柄である。これがあるために、体が中心に置けず、雨に濡れてしまう。かといって、タケコプターみたいに頭の上に置くというのも避けたい。これを解決する方法はあるのか。もしできれば、より快適になるし、傘の面積も減らせるだろう。2024年10月

統合失調症と発達障害

 昔、1990年代だろうか、東大の精神科で一連の貴重な研究があった。それは、統合失調症の患者さんの小学校や中学校の成績表の人物評価の欄をその兄弟や姉妹のそれと比較するという研究である。現代では、当然のことながら、本人や親の同意が必要だから、なかなかできないかもしれない。ともかく、素晴らしい着眼点であると思った。

 結果であるが、統合失調症の人は、健康に育った兄弟姉妹と比べて、小児期から性格上の特徴が明らかだというのである。人見知りで引きこもりがちだとか、逆に怒りっぽいとか衝動性とかがあるというのだ。前者を陰性特徴と言い、後者を陽性特徴といっていた。そして、陰性特徴だけのある人と陰性特徴と陽性特徴を持つ人がいるという。

 その他のこのころの同様の研究からの一致した結論は、統合失調症に青年期以降に罹患する人は、実はすでに幼少期から小児期に発達上の特徴を有しているというのだ。これが、神経発達成因仮説につながったとも考えられる。

 これは、どういうことかというと、統合失調症の素質、遺伝的要因をもった子供は、そのために、例えば何らかの過敏性を有し、そのために防衛と言う意味で控えめになるなどが考えられる。つまり、遺伝子と外界との関係で、陰性特徴や陽性特徴が発病に至る前から現れてくるのだ。

 さて、現代は、発達障害の時代である。統合失調症がなっては嫌だとされる病気だとすると、発達障害は、時に自分が苦手なことに医学的な理由(言い訳)を与えてくれる、時には診断されることがプラスになる病気になった。もちろん、そういう人だけではないが。病気の価値が高められたようにも感じる。

 また、統合失調症だと思われていた人が、発達障害だったとか、統合失調症だけでなく発達障害も併存しているなどともいわれる。先の成績表の研究と考え合わせると訳が分からなくなる。統合失調症になると、それと同等以上に、いろいろなことがうまくできなくなるが、発達障害ほど同情もされない。2024年10月

遺伝子との闘い

 人間は、目の前に次々に現れる世界、環境に対峙して格闘しているように考える。それらの環境は自分とは無関係のものではない。むしろ自分が生み出しているものと言ってもよい。たとえば、神経質な人がいたとしよう。その人には世界は汚れている物に満ちていると映る。それを無視するのか、自分のできる範囲できれいにしていく努力をするのか。一方、清潔さに無頓着な人には、別に世界は汚くはみえない。つまり、環境は自分で作っている面もある。

 自分とは何か、清潔さが気になる神経質な自分、怒りっぽくしばしばトラブルを起こす性格、何故かやばい人が集まってくる人柄。これらは、自分の遺伝子の産物である。だから、世界を構成するのは、自分の遺伝子であって、世界を変えようとするなら、それは自分の遺伝子との闘いということになる。

 例えば、神経質な人がそれを克服しようとするならば、神経質を生み出している自分の遺伝子との戦いになる。2024年9月

精神科病院の虐待について

 お国から、病院内に張り出すように言われた。あなたは虐待されてませんか、病院の中で虐待されている人を見ませんでしたか? そういう場合は以下に通報してくださいというものだ。

 確かに、最近も精神科病院の不祥事が話題になっていたが、「病院職員による虐待を受けた方は、その旨を下記窓口に届け出ることができます」など非常に衝撃的な文言である。「精神科病院=悪」というように捉えられている。老人ホームにも張り出されるのだろうか? あるいは、知的障害者施設には、そして、内科病院や、内科医院には貼りだされるのだろうか。あるいは、警察や自衛隊というのはどうだろうか。銀行に「あなたのお金を銀行職員に不当に搾取されていませんか?」とか、百貨店に「あなたの購入した商品は不当に高い値段ではないですか?」と貼り出せと言われたら怒るだろう。銀行も百貨店も貼りださないだろう。だれがこれを貼りだそうと言ったのだろうか。精神科医はだいたいお人好しだから、私以外に問題を感じた人はいまのところいないようだが。まあ、精神科病院には強制入院があるからしかたないのだろうか。銀行や百貨店には強制預金や強制購入がないのだから。2024年9月

ニュートンの1年とアインシュタインの1年

 天才というものは、本質的な成果を出す時期が限られていることがあるらしい。アインシュタイインは、1879年3月14日1905年、26歳のときに3つの重要な論文を発表する。この1905年は「奇跡の年」とも呼ばれている。「奇跡の年」およびそれに続く数年で、アインシュタインは光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。ニュートンは1642年12月25日生まれ。アイザック・ニュートンにもそのような年があったらしい。つまり、その他の期間はその準備期間だったり、発想を具体化する時間だったりする。2024年4月

治療者のとしての考え方

 不安に満ちているとき、窮地に追い込まれたとき、人間は必死にそれに抵抗し、そこから何とかして脱出しようとする。生き延びなければならないからだ。なるべく動かず、エネルギーを使わないというのも一つの作戦だろう。そのとき、どうしても自己中心的になる。他人のことなど考えられないし、考えないのが正解だろう。こうするべきだというアドバイスを受けても、その通りに動けないし、動かない方が正解なのかもしれない。あまり、正論を言うとどうなるか、その通りにできない自分はダメな人間だとますます思うだろう。

 そのような状態の患者さんに愛情を注ぐのがこちら側の役割だ。人間は自己中心的になれば、他者に対して不快なふるまいをするのは普通のことだ。少しもびっくりしない。治療者の心の中には、不快なものが生まれる。よく患者さんが窮地に置かれていることを理解しないと、自分への攻撃の様に受け取ってしまう。あるいは、無力さを感じてしまう。治療者の思う通りに患者がなるとか、順調に改善するなどと思わない方が良い。なかなか改善しないこと、努力が実を結ばないこと、せいぜい現状維持で、時には悪化することもある。そのような時こそ、平静な心と愛情を失ってはならないだろう。困難と闘う人が、そうならざるを得なかったことを理解し少しでも役に立つことだろう。いや、自分の間違った治療により、悪化させてしまうことだってある。

 しかも患者さんは自分たちより、たいてい大きな困難と闘っている。より大きなハンディを背負っている。それを理解し、味方になることだろう。自分の偏った主義主張とか、功名心とかを捨てて。これはたいへん険しい道だし、こんなことがだんだんできるようになれば立派なものだ。2024年4月

サイトが壊れた

 2023年8月23日、本ホームページが壊れました。いや、壊しました。病院の情報をご覧にいらっしゃった方々には、たいへんご迷惑をおかけしました。「院長のエッセイ アーカイブ」のサムネイルが出ず、それを修復しようとして、クリックを2つしたところ、サイトがなくなってしまいました。どうにもならないので、業者に本日頼んだところ、奇跡的にこのように修復してくれました。

 ほんとありがたい感謝します。精神科医はなかなか患者さんをスッキリと短期間で良くすることができません。それに対して、ワードプレスが壊れた時に修理するという業務はすごいとしかありません。今まで書いていた100ページ以上のホームページが一瞬にしてなくなったかと思いました。しかも、修復するのは無理なのではないかと思っていましたので、本当に驚きです。死んだ人が生き返ったようです。最初から作り直そうと覚悟を決めていました。今までの生き方が悪かった。最初から生きなおそうと思ったくらいです。2023年8月28日

 

善い人にも悪い人にも

 人間はどうしても自分の好む人に対して親切に扱い、あるいは、権力者にぺこぺこしたりします。一方、嫌いな人やみじめな人には不親切だったり、無関心だったりします。しかし、「神は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5章45節)という言葉もあります。

 意気消沈している人、人に嫌われる人、不道徳な人、無能だと言われている人にどう対応すべきでしょうか? 二宮金次郎は、善と悪という対立はないのだというふうに考えました。2023年8月

人を信用する

 首都高速の右側車線をスピードの出ないトラックがゆっくりと走っている。そのため、その後に続く車が数珠つなぎになっている。しばらくすると、右側の出口からそのトラックが高速を降り、ようやく後ろの車列が開けた前方に進んでいく。

 こういうことを経験したことはないだろうか。なぜそうなるかといえば、出口の直前で車線変更しようとしても出口のある右側の車線に入れてくれないのではないかと心配しているからだ。そのためにずっと前から右側車線を走ることになる。

 これは、心配し過ぎではないだろうか。人を信用していないということだ。だから、チャンスがあれば、早めに車線変更しておこうという考えだ。

 でも、急に人を信用したくなった。その方がいいに決まっている。だから、出口の直前になるまで、出口のある車線にいかないと決めた。人間が親切なのかどうなのか、実際試してみたい。また、自分はなるべく人を信用したいと思う。過剰に心配するのも嫌だ。さて、どうなることか。2023年4月

有益な質問

 いろいろと考えなければいけないことがある。禅問答は、禅宗の修行の過程で非常に重要なようである。医療者にもそれは可能だ。

 自分は、精神科医であったり、看護師であったりする。一方、患者がいる。精神科医は患者に対して、あたかも人生の先輩のような物言いをする。

 ここでである。なぜ、あなたは医療者の側にいて、患者ではないのか? ということだ。ここを考えてほしい。十分時間をかけて。公案と同じように、一つの大きな壁である。2023年3月

精神科の診断はできない

 昔から精神科の診断には、いろいろな考え方があった。統合失調症と言う時、その人そのものが統合失調症と言うニュアンスがつきまとう。胃潰瘍と言うのとは異なる。その人そのものが胃潰瘍ということはないだろう。

 だから、そもそも、精神科の診断は、その人そのものの近くで診断するということになる。クレッチマーやシュナイダーの人格についての診断などみても、その人そのものが診断分類される。

 疾患はその人の人格の中心に近くなるほど難しくなる。ところが、DSMやICDで必ずどれかに分類できるはずだという不思議な認知が広まっている。驚くべきことだ。

 なぜなら、人格に近いものほど、それは神が作ったものなのだ。神に抵抗があるというなら、自然が作ったものなのだ。それに比べて、DSMやICD、それに従来診断は、所詮神よりずっと認識力の劣る人間が作ったものだ。

 神の作ったものを人間が分類できるはずがない。その証拠に、DSMもICDも永遠に書き直される。神はそんなことはしない。その人がどういう人間だということを人間が決めつけることができるはずがない。ましてや、たかが精神科医が。そんなことHABITだってわかっている。また、シュナイダーの分裂病診断の際の最後の言葉を忘れるな。2023年3月

書類の多さ 日本人の劣化

 精神保健福祉法が改正され、2023年の4月から、さらに書類が複雑になる。当然、処理に要する時間もエネルギーも役所の仕事も多くなる。こういうことをしていると、ますます日本は劣化する。大した成果もないことに生命をつぎ込むことになる。発展とか進歩には回せない。

 そういう仕事を減らしていかないと、日本は復活できない。その辺を横領よくやる国に勝てるわけがない。そうしているのは何か? 完全主義とか、1回あったことを絶対に起こさないようにするという考え方だ。失敗に厳しすぎる考え方だ。日本人のこういう特性は車造りでも犯罪の抑止でも役に立ったかもしれない。しかし、とてつもない弊害があり、日本は進歩・発展の道を失ってしまった。そのことに気づかない。気づいても無関心だ。考え方の改革が必要だ。2023年3月

患者差別

 精神疾患の患者さんの不幸は、呉秀三の言うとおり、この国に生まれた不幸なのか。医療保護入院で入院している患者が外出先で問題を起こした。というか、コンビニから帰ってきてから、転院の対応が悪いとスマホでコンビニのその地域の統括管理室のようなところに電話して「その店員を殺してやる」と脅迫したらしい。管理室は警察に連絡した。

 彼は面接で、持っているお金よりも多く商品をレジに持って行ってしまった。僕は文系なんで計算が苦手なんですという。「ちゃんと考えてからもってくるの!」と言われたから腹が立ったという。私は「そんなことコンビニの店員が言うわけがないでしょ」と言い、幻聴なのだと思った。

 ところが、店内ビデオを見に行った看護部長が、「本当です。本当に女性店員がそのように言ってました」と言う! その後、警察から患者についての情報がほしいと電話があった。私は、「精神科の患者と分かっていて、わかっていたからこそ、そのくらい言ってもいいと思ってその店員はそう言ったのじゃないか」と言った。「そうだとしたら、相当悪質だ!」、「まず、店員に謝罪してもらえばいいのじゃないか」と警察官に言った。警察官はそれは警察の仕事ではないのでという。
 さらに、今後外出は付き添ってもらえないか、とか、その患者が電話するときは聞いててくれないかというので、それはできないとお断りした。世話になっている警察だが、そんなことはできない。

 患者は無料の弁護士に電話して、訴訟が起こせないかと聞いたらしいが、それはできないといわれたからやめますとという。彼は、生活保護であり、もちろん弁護士費用も払えない。ふつうの弁護士なら、なだめて終わりだろう。そのとおりになった。2023年3月 

患者様の立場に立つ

 上記のことは、医療者や介護者にとって大切なことだが、そのためには、優れた想像力が必要だ。しかし、私も含めてだが、その能力はたいていは不十分だ。9月8日

偉人の副作用

 偉人のうつ病について多く語ってきた。宇多田ヒカルも歌っている。「才能には副作用、栄光には影」。彼女自身も、彼女の親もそうだのだろう。9月2日

弱点はないのか

 当院で働きたい、専攻医になりたいという医師が多く来てくれます。かつては、どうぞ来てくださいと言っても来る人がいなかったし、来てくれても、前の病院でうまく適応できなかったり、問題を起こしたりした人ばかりだった。それでも気を取り直して何とかやってくれるのではないかと希望的観測をしたが、やっぱり難しいということが多かった。本人からみても不本意な結果になってしまったに違いない。そして、だいたい、病院が悪いからだとされた。

 しかし、最近は、極めて高学歴、優秀な医師が働きたいと来てくれる。病院の格が上がったからだろうか、いや、当院では指定医と、専門医の資格が取得できるということも大きい。治療の内容はたいして変わっていない。常勤の医者も前とほぼ同じだ。

  そういった有望な人にも弱点はあるのだろうか? というのは、精神科の患者さんというのは、病気のために、うまくいかない人が多い。仕事も、家庭も、経済も、欲求も、人間としての尊厳も。彼らには、人間としてのかけがえのない尊厳があるはずだが、本人も周りも、さらに医療従事者でさえ、ないと思っている人が多い。さらに、ないと思っていることに気が付いていないことも多い。たぶん。

 優秀な人に何が欠けているかと考えたら、大切なものが欠けていることがあるのが分かった。それは、失敗の経験だ。もっと、正しく言うなら、頑張ったのに失敗した経験だ。自分の力ではできないという経験だ。私は、たくさん失敗してきたという自信があるし、患者さんたちもたいていそうだろう。そのような不公平がこの世にはある。

 でも、精神科医になりたいというのだから、何かしら思う通りでないことがあったのだろう。それを糧によい精神科医になってほしい。9月2日 

会議を減らす会議

 医師会に入っていると公務が回ってくる。行政の方からこれをやってくれないか、誰か、候補者を探してくれないかなど。誰もやってくれなければ、自分が引き受けるしかない。いろいろな判定会議、相談、学校医、審査会。日中、勤務時間中に出ざるを得ないのは本当に困るし、仕事が回らなくなる。かといって、夜の会合、だいたい7時半からのも辛い。9時に終わって、夜道を1時間運転して帰るのももう危険な年齢になっている。

 そういうことで困ってる医者の代表が、何とかいい方法がないものかと会議を開きましょうということになった。みんな深刻な問題で情報交換できてよかったし、こういう企画をたててくれた人に感謝したい。

 しかし、この集まりも会議であって、夜7時から始まっている。また、話し合いましょうということで、次回の日程も決まった。だが、会議を減らすための会議ともいえる。どのように解決したらいいのだろうか?

 介護保険の認定だって、自立支援だって、退院請求だって、障碍者手帳の審査だって、みんな医者が集まってまじめにやっている。その間、前後の通勤時間も含めて、臨床活動ができなくなる。しかも、私などは、年も年だし、病院で疲れ切ったうえで、さらに遠方まで出かけて会議に集中しなければならない。

 しかし、自分が辞めれば、だれかがまたやらなければならない。そう考えると辞めたいと宣言するのも勇気がいる。病気にでもならなければやめにくい。そんなことはおかしいと思うが、解決方法がない。

 こうなったら、条例しかないのではないか、さいたま市で精神科医として働くためには、公務をしなければならないというのはどうだろうか。5年間のうちに公務をある程度しなければ、医業を存続できないとか。現に、精神保健指定医は、県の命令で、実地審査に1年に1回はいかなければならない。今年も遠方の病院に平日の昼間に無理して時間を空けていかなければならない。そうでなければ無理だ。なぜなら、医師会に入るためには、多額の入会金を払わなくてはいけない。だから、医師会に入らない精神科医は多い。8月31日

わからないこと

 どうしても人は他人を自分の尺度で眺めてしまう。査定してしまう。自分と同じようにできるはずだとか、背景も能力も運も違うはずなのに。どうしても抗しがたい衝動、みんなができるのに自分だけできないこと。

 自分には理解できないこと、隠された特別な事情があろうことを想像する。きっと自分は他人のことはわからないのだという想像力が必要だ。そうすれば、断罪することも、強要することも、差別することも、馬鹿にすることも少なくなるのではないか。きっと、優しさにもつながる。8月29日

驚くようなこと

 昔の驚くようなことを思い出す。言ってはいけない秘密の出来事だ。もう時効だからいいだろう。名前も忘れたからいいだろう。わが師は、患者さんに自宅の電話番号を教えろと言っていた。そのため、教えていた。しかし、とんでもないことが起こる。私がたまたま家にいたときだ。今は辞めてしまった医療機関に通っていたおそらく30歳前後の女性の母親からだ。娘が団地の部屋から飛び降りて死んだという。その死体を母親は、誰にも見つからないように自分でおぶって部屋まで登ってきたのだという。それは、自殺と知られたくなかったためであるし、その娘の兄弟の家への影響も考えてのことだ。そして、先生、これから来てくれないかというのだ。自殺でなくて心筋梗塞とかの診断書を書いてくれというのだ。さすがに法に触れることだし、丁重にお断りして、警察を呼んだ方が良いとありきたりのアドバイスをした。しかし、あとから、母親から聞いたことには、近所の開業医に頼んで診断書を書いてもらったというのだ。もちろん偽の診断書だ。母親は初志を貫徹し、家族や親族を守った。開業医は、法に触れてまでそれに加担した。

 一番大切なことは何か?もっと正しい事のために法を破ること、しかももっと正しいのはそれによって罰せられることだ。私にはとてもできないが。2022年8月28日

待たせない努力

 外来の患者さんを待たせたくはない。私なら、そんなに待てないだろう。待たせることで、治療が途絶え、再燃してしまったらどうにもならない。朝外来を始めるときに10人の患者さんが待っていたとする。もし、10分早く外来を始めるならば、1人が10分待ち時間を短くできる。10人なら100分だ。30人なら300分だ。総待ち時間数。これがどういうことか理解するのは難しいが、少しでも早く始めた方が良いだろうということはわかる。8月27日

精神科の診断について

 自分の病名は何だ?と聞いてくる人がいる。しかし、何年診ていても正直言ってよく分からないことも多い。○○病ですとしかいえないときもある。(○○は患者さんの名前)。精神科医の中には、英断主義の人もいる。「あなたは○○です」とか言って、しかも確信に満ちている人。DSM等で細かく分類する人。私のようによくわからず、診断書の時に困る人。

 しかし人間が作った診断より、神だか自然だかが作った人間の方が複雑なのは当たり前だ。精神疾患は高度な、高貴な病だから、なおさら分類することは難しい。だから、新しい新しい診断基準をつくろうとするのだ。

 実際、幻聴や被害妄想が存在の中心となることは少ない。ひどく落ち込んでしまう、リストカットをする、頻回にトイレに行く、何度も同じことを質問してしまう。薬を毎日倍の量飲んでしまう、など、個性的な問題ばかりだ。

 それなのに、診断基準は画一的だ。だからといって名案があるわけではない。DSMだっていい方だろう。8月27日

不完全主義

 物事を極めようとすると、完全主義的になっていくのはしかたないかもしれない。しかし、危険でもある。病棟を建て替えたが、実際にはよく練ったつもりでも、これはこうあるべきだったなど、細かい問題が出てくる。

 大和俗訓の中の貝原益軒の言葉を挙げよう。

 家のうちで、妻子家人の自分に仕える勤めが、十分にわが心に合わないからといって、責め怒ってはならない。人に交わるには,恕をもって人の非を許すべきである。またわが衣食・住居・器物・財用などことごとに、わが心を十分に満ちさせようと思ってはならない。つねに不足のある方がよい。十分に心にかなうと禍がある。「家のいらかをふきて三瓦をおおわず。衣のえりを欠くのもこの意なり」と古人は言っている。

 おお、何という深淵だ。7月26日

現場の声を聴きすぎるな

 精神科病院でどうして、過去10年間で、身体的拘束が増えていったのだろうか? 病状が悪くなったわけではない。統合失調症の軽症化は前から言われていることだ。医療安全、完全に労働者の安全を確保する、未然に防ぐ、事故はゼロでなくてはいけない。そういったことの弊害として、過剰防衛となり、拘束も隔離も増えたのではないか? 上の者は、現場の声を聴く。現場の声を聴く人がよい上司だ、信頼できる上司だ。

 呉秀三は、逆に現場の声を無視した。彼の最大の功績は、そこだろう。現場の人間にとっては最悪であるかもしれない。現場のことが分かっていない? そうだ、そこが一番大事なところだ。価値のあるところだ。ピネルは、呉ほどではない。なぜなら、現場の声を聴かない看護者に同調したと思われるフシもあるからだ。

 何が正しいのかわからない。同じようなことは教育現場でもあるようだ。みんなが正しいと思っていることがしばしば間違いのこともある。それがわからないのだ。せめて、違う選択肢があることに気づこう。現場の声を聴きすぎる上司になるのを反省しよう。そうしよう。

 失敗するかしないかぎりぎりで生きるべきだ。事故が起きるか起きないか、ぎりぎりで生きるべきだ。少なくとも完全な安全を求めるのはやめよう。7月20日

加害者の実像

 京都大学出の父親と障害を持っていた兄が自殺。本人も自衛隊時代に自殺未遂を起こし、入院もしている。たぶん、精神科病院にも入院したのではないか。母親は宗教にのめり込んだ。父親の自殺は、母親の宗教へののめり込みの影響が大きかったのだろうか。

 本人は高校時代までは、運動も学業も絵も優秀だったらしい。ただ、コミュニケーションだけは上手ではなかったようだ。大学を辞めたのは、金銭的問題だったのか、あるいは、適応がうまくいかなくなりはじめていたのだろか? 自衛隊でも行き詰まり、また、派遣で働いた時には、段取り通り作業をせず、それを指摘されるとキレてしまったらしい。その後、仕事がきついとやめている。彼の恵まれたはずの能力は、実は通常の労働ができないほど低下していたのはないかと思ってしまう。原因を母親の宗教へののめり込みとだけしてしまってもいいものだろうか? むしろ、彼が母親ののめり込みは、隠れ蓑になっていたのではないか。むろん、本人は気が付かなくても。

 そして、犯行の時には、所持金も少なくなり、どうにもならなくなっていたようである。これも原因の一つだ。というか、実は原因の内、大きな部分を占めたのではないか? それでも働くことができなかったし、助けを求めることができなかった。うまくいかないことの原因を親に求めるのは家庭内暴力でよくあることだが、彼は自分がうまくいかない原因を母親の宗教に求めたようだ。安倍元首相もその原因とした。人は精神科医と同じように原因をしばしば間違えるが、病的であるほど、原因を多く間違える。原因を間違って同定しているから行動もとんでもないことになる。

 多くの病気の方々をみてきたせいか、青年期から、彼の何かが徐々に落ちてきているというように見える。それは彼にも誰にもみえない。それが目立たないのはなぜか? それは彼がもともと一部の才能に恵まれていたからだ。それが原因の大きな部分ではないか。精神科医は、しばしば、思い込む。原因を間違える。7月16日

大切なルールを優先せよ

 いろいろな画像が出ている。彼は不完全なつけ方だが、マスクをつけている。マスクを装着するというルールを守りながら人を殺した。人を殺さないというルールを優先できなかったのはなぜか。アンバランスだ。

 同じステージには立つことのないはずの2人が、同じステージに立つことになってしまった。アンバランスだ。

 忘れさられた人間によって忘れられない人間が殺される。

 7月13日

民主主義への挑戦か

 安倍総理襲撃事件について、ほとんどの政治家が、「民主主義への挑戦であり、断じて許すことができない」と口にしている。本当に民主主義への挑戦なのだろうか? 本人に聞いてみたらどうだろうか? 「あなたの行ったことは、民主主義への挑戦ですか?」、「えっ、それって何ですか?」と言いそうだ。

 少なくとも、民主主義を亡き者にしようとしたわけではないだろう。民主主義などという崇高なものではなく、個人的な俗な思い込みなのではないだろうか。ゆるせないより、やるせない。いつも日の当たらない者が、日の当たる者を滅ぼす。不釣り合いだ。 2022年7月10日

英国の英断

 コロナの患者の隔離措置を無くすと英国の首相が述べた。英国の英断だ。かたやわが国はどうか。専門家が、子供のワクチンについて、よく子供と話し合い進めていくのが良いという。副反応についても話し合いながら進めて行けと。それはそうなのかもしれないが、「やった方がいい」では、いけないのか。

 日本は失敗しないかもしれない。失敗しないということが第一のようになっている。それ見たことか、というのが怖いのか。日本は小さな失敗はしないように心掛けているうちに、大きな失敗をするのじゃないか、そんな気がする。

 英国の英断はいいが、問題はロシアのロ断だ。言語道断だ。2月23日

コロナのきつ過ぎる対策

 オミクロン株の勢いが止まらない。高熱の出る人ものどの痛みが強い人もいるが、発熱は1日から3日で軽快する。肺炎になる人はいない。どの人もだるさなどはあってもたいてい食欲はある。PCR検査NEAR法の試薬が手に入りにくい、抗原検査キットも入らない。政府は検査なしで診断してよいという方針らしい。

 問題は、職員の復帰基準がきつすぎることだ。もっとも早く帰れるのは、症状がなくなり24時間後とそのまた24時間後にPCR検査をして両方陰性なら復帰していいということになる。ただし、今までの経験だと、症状がすっかりなくなっているのに、PCRをするとプラスだということが多い。だから、検査なしでかつ症状が72時間なければ最短10日で復帰していいというのだ。それでも長すぎる。病院だけでなく、老人施設も、保育所も、幼稚園も学校も人手不足で営業できなくなる。

り患した場合の症状が軽いだけに、病気そのものよりも防衛対策の方がずっと重荷に感じる。検査も多くて職員が疲弊する。そんなに厳密にしたって、他のところから、意外なところから入って来るので、計画的過ぎてもダメなのではないか?症状がなくなり、抗原検査でマイナスならば、感染力は弱いとして職場復帰できないだろうか。その方が現状に合っている気がする。その人がまだ少し感染を起こす可能性があってもいいじゃないか。なぜなら、発症前の2日間でかなり感染させているだろうし、感染させたところで治るし、その人以外の無症状者がいっぱいまき散らしている可能性がある。また、今日PCRでみんな陰性だと確認できても、同じ人が翌日はプラスになる可能性だってあるので、スクリーニングがどれだけ役に立つのか。

 検査を増やせば、試薬やキットはなくなるし、残った看護師は疲弊する。この努力は無駄ではないのか? そう思えてしまう。1月25日

家康の言葉から

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」
(遺訓)

 家康は自分に言っているのであろうか? 自分の子孫か部下か?家康の一生も重荷を背負って遠い道を歩かなければならなかった。将軍様になっても大変だ。将軍様でもたいへんなんだから、庶民はもっと大変なのをがまんしろということか。これらの教えを守った先に何があるのだろうか?

ゲーテの言葉から

 「世間の人は、たえず私を運命の寵児のようにほめたたえる。わたしも格別不平を言おうとも思わないし、過去の生活を嘆こうとも思わない。だが、結局のところ、苦労(努力)と仕事以外の何物でもなかった。そしておそらく、七十五年の生涯のうちほんとうに楽しかったのはものの1か月もなかった、と言っていいかもしれない。くりかえしくりかえし上に上げようとして一つの石をたえず転がしていたようなものだ。」(ゲーテとの対話)

家康にせよ、ゲーテにせよ、万々歳ではなかったということです。幸せでしたか?と聞いたら、少なくとも強く肯定することは二人ともできないだろう。もし、幸せが人生の目標だとすると、家康もゲーテも失敗したということになる。本当だろうか?いろいろなことが考えられそうだ。1月9日

左利きと才能の関係

 ドラマ「最愛」を見ていたら、主演の吉高由里子が左利きだった。それだけではない、主演男優の松下洸平も左利きだ。どういうことだ。左利きの確率は10%くらいらしい。だから、ドラマのプロデューサーが主演女優を探してきた場合、彼女が左利きである可能性は、10%。そして、主演男優の10%だから、両方とも左利きの確率はたった1%になる。ふつうありえない。

 それだけではない。テレビを見ていたらバナナマンの日村勇紀も左利きだ。テレビ番組で食べてるシーンが多いからわかる。ついでに今日見たテレビで、バスの旅の田中要次も左利きだ。これから考えられる仮説はこうだ。テレビに出るほどの才能を持ったタレントは、左利きの確率が一般人より高いのではないか。

 その確率が30%程度なら、主演が2人とも左利きの確率もそう低くはないだろう。たまたまで済むかもしれない。

 左利きだとどうなるのだろう。一番の違いは、心臓との位置関係だろう。左利きの人であってもたいていは心臓は左にある。つまり、心臓と利き手の位置関係が一般人と違うということだ。そこが一番違う。心臓が右にある右胸心の人が左利きであってもねじれの関係がないから普通の人かもしれない。

 あるいは、左利きになるDNAの特性があって、そのDNAが才能を発現させるということかもしれない。さて、左利きが多い地方とか人種があるだろうか? 勝手な推論だけど、緯度の高いところに多いのじゃないだろうか。51%くらいの確率であっていてほしい。こういうことは橘玲さんが得意だ。もう、本の中にあるかもしれない。

 天才は冬生まれが多い(という書籍がある)、統合失調症は冬生まれが多い(わずかに)、統合失調症は緯度の高いところに多い。左利きに天才が多い。じゃ、左利きは冬生まれが多いか? 緯度の高いところに多いか?

全く違う考え方もある。左利きを矯正されるという試練に打ち勝って自己を貫く強さがあったために、主演の俳優になれた。あるいは、こうだ、左利きを無理に矯正しようとしなかった常識にとらわれない家庭環境に恵まれた。

 テレビを見るときについつい、右利きか左利きかが気になってしまいます。ドラマの内容などどうでもよくなってしまいます。あなたも。食べるシーン、食べる番組も多いですね。2022年1月8日

修理と修繕の効用

 修理の上手な患者さんがいる。家庭内のちょっとした破損とか不具合とかをホームセンターで買ってきた小道具とかボンドとかで修理する。ものが壊れるとうれしいくらい修理好きだ。修理はたいていうまくいき、彼に喜びと自信を取り戻させる。自分は有能だと思える。ちょっとした精神の不調も乗り越えられる。彼にとっては素晴らしい対処行動なのだ。

 こうしてみると、修理、修繕、推敲、補修などは、精神的な面での効用があることがわかる。創造はちょっと大変でも、修理なら身近だどろう。きっと、多くの精神的な不調を救ってきたのだろう。作家も推敲で回復するというのもありうる気がする。実際、推敲が好きな作家が多くいたはずだ。

 しかも、修理や推敲は100点じゃだめだ。70点か80点くらいがいい。12月1日

鎖国

 岸田首相が鎖国を宣言した。ウイルスはすごい、国を鎖国に導くことができる。これほど強い力のあるものはなかなかなないものだろう。しかも極小でもある。不思議だ。外から入ってくる人は、出島で様子をみていたが、出島もなくなった。11月30日

金閣寺炎上

 BSプレミアムで、「金閣寺炎上」を見ました。放火した修行僧の養賢は、もともと、内向的で、人見知りで、統合失調症気質だったと思いました。余裕のない中での大学生活。その大学時代に、成績の最下位への急激な下落。つまり発病。「生きる意味」を師の慈海に尋ねたことは、生きる意味を明確にしない限り、生きていくことができない危機的状況にあったことを示しています。そして、彼は服役中に廃人のような精神状態になってしまったそうですが、統合失調症が着実に進行していたのではないでしょうか。しかし、三島由紀夫、水上勉も、その他の出演者も誰も精神疾患の可能性については述べていませんでした。慈海だけが、「青年期にある鬱症」のように捉えていました。三島に金と女遊びの俗物のように書かれ、水上に吝嗇と書かれた慈海は一度も反論せず、金閣寺を焼いた養賢に対して最後までそれこそ慈しんでいたようにみえます。それができたのは、慈海だけが、誰にも責任のない、病気であるとわかっていたからではないでしょうか。人は原因を知ろうとし、そして、誰かの責任にしようとしますが、本当の原因はいつも把握困難です。2021年11月23日

偉人のうつからわかったこと

 偉人のうつ病を研究しているうちにわかったことがある。偉人のほとんどは、深刻なうつ状態を経験している。最近調査しているマザーテレサでさえ、長い間、非常に深刻な状態だった。生き永らえたのが不思議なくらいだ。しかも、それを打ち明けたのはほんの少数の人であり、多くの人には隠し続けてきた。しかもマザーテレサの場合、家庭生活も、結婚も、財産も、趣味や嗜好もすべて放棄したのに辛すぎる。せめて、精神の安らぎくらい得られても誰も文句言わないだろう。

 哲学者もそうだ。哲学者は、よりよく生きるとか、幸福になる生き方を模索するのがないわいだろうが、ほとんどの哲学者も苦しんできた。珍しく幸福を感じていたのは、バートランドラッセルだが、彼も思春期から青年期には自殺しそうな時期もあった。

 偉人にしてそうなのだから、凡人がうつ状態になったり、生きているのが嫌になったとしても、それは決して起こりえないことではないので安心することです。少なくとも自分に責任はありません。2021年11月12日

人流について

 人流という言葉が気になります。水流、土石流、火砕流、溶岩流、対流、一流、亜流などなど。多くは、自力で動かないものが、重力で動くものです。上から下へ。人間は自力で動くもので、しかも重力によって、自宅から渋谷に流れていくものではありません。だから、そぐわないように感じるのでしょうか。

 でも渋谷の標高低いですね。銀座も低い。ダウンタウンなんて言葉もあります。やっぱ重力によって、山の手とか、群馬あたりから流れてくるのでしょうか。10月22日

コロナウイルス感染者数の減少の意味するもの

 コロナの感染者が急激に減っています。減り方が尋常ではありません。前の週の1/2位になっています。専門家の皆様でも急激に減った理由が分からないといいます。要因として、人間の側、コロナの側、その他に分けると、どうも人間側ではない。人間側が急に行動制限を強めたわけではない。むしろ、緊急事態宣言が解けて外出者も多い。また、その他の要因も考えられない。とすれば、減少の原因はコロナの側です。

 そして、減った理由が分からないのだから、今まで増えてきた理由も本当は分からなかった。対策が合っていたかもわからないということでしょう。10月22日

マザー・テレサの暗夜

 マザー・テレサの奉仕の生涯には強い関心がある。彼女は、キリスト教の超熱心な信者であり、自分のことをイエスか、キリストかの鉛筆だと言う。つまり、自分といものがなくなり、すべてを捧げた人生だった。何を捧げるのか? 私有財産は持たないし、自分の時間すら、自室すらもたなかったのではないか。そんな彼女は、きっと、すがすがしい感情で満たされていたのではないかと思っていた。暗闇などないのではと。現に、いままで、彼女について書かれた書籍からみると、彼女はキリストとの深い一致により、悩みなどないように思っていた。ところが、たまたま、新聞の広告欄に載っていた「マザー・テレサ 来て、わたしの光になりなさい!」という彼女の私的な手紙を掲載した書籍を読んで愕然とした。彼女には長い間、精神的な空虚感とか、キリストに対する疎外感、暗く救いのない気持ちなどがあったことが紹介されている。いったいどういうことだろうか?それでは、奉仕の生活、神との一致などは、意味がないのではないかと疑いたくなってしまう。マザーのようになりたいと思わなくなってしまうのではないか? よく検討していきたい大問題です。10月2日

いじめの構造

 昨年にSNS上の中傷によって自殺においこまれた女子プロレスラーがいたが、いじめの問題はなくなっていない。コロナによるリモート授業用に配布したタブレットによるいじめと自殺例もあるそうだ。これらの内容をみると、いじめる側には、発散したい鬱屈した不健全な感情(コンプレックス)があり、自己の安定を少しでも保つためにその感情は吐け口を求めている。それが健全な形で解消されればよいのであるが、そうでない場合、いじめによる発散によって、精神のバランスを保とうとするのではないか。もちろん、それは当人の意識下にあって、自分では気がつかないものである。

 そして、ターゲットは自分にとって何らかの引っ掛かりがある人物であったり、強い反抗をしてこない安全な人物であり、その人物が行ったわずかな行動や発言などを取り上げて、攻撃し困らせるということが多い。家庭内暴力でもパワハラでも似たような構造があるような気がする。ちょっとした突っ込みどころを取り上げて、自分の気が付かないうっぷんを晴らす手段とする。突っ込みどころがあるように思わせる弱者(仕事上のミスとか、仕事処理の遅さとか・・・)を困らせる。

 いじめる側は、正義の制裁だと勘違いしてしまっている。相手に反省を促し立ち直らせるためだと思っているかもしれない。程度の差こそあれ、誰にでもある。しかし、自分の心理的に未解決な問題の処理の程度が大きければ、それだけ病的だ。自分で気づくことはないだろう。形を変えて繰り返される。解決した方が良いものは、いじめる側に隠れている大きな暗闇である。
 私は専門家ではないが、単純に考えればそのような構造がいじめの背景にはあるのでないかと思う。もちろん、専門家はもっと複雑で真に迫るメカニズムを知っている。9月16日

破衣(はい)とは何か

 知的障害の方たちの問題行動には、精神障害の方たちとは異なる問題行動があります。それこそ、独特な行動が。そして、それらに名称がつけられています。たとえば、自分の来ている服とか、人の来ている服とか、しまってある服を破いてしまう行為があります。これを、知的障害の施設の職員は「破衣(はい)」とか、もっと学術的に用いるときは「破衣行為」と呼んでいます。どこからきた言葉かはわかりません。広辞苑にも載っていない言葉です。精神医学の教科書にも載っていません。ネット上で検索してみると、吉川英治が用いることがあったようですが、衣を破くのではなく、貧しさや無頓着さの象徴としての「破れた衣」の意のようです。

 最近読んだ本に、衣を破くという行為が旧約聖書にあるということが載っていました。「・・・・激しい悲しみを表現する際に衣を引き裂くという、イスラエルの習慣を示唆します。旧約聖書の「創世記」には、息子ヨセフが死んだと思い、悲しむヤコブが、自分の着ている衣服を引き裂く場面があります。(37章34節)」。

 また、同じく旧約聖書のヨブ記の中には次のようなことがあるそうです。「何の悪事もしていないのに、突然すべてを奪われたヨブは、「上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ」て嘆き悲しみました」。(1章20節)

 知的障害の方たちの破衣には、悲しみが満ちているのでしょうか。9月12日

インターロイキン-6

 IL-6(インターロイキン-6)は、白血球等が産生するサイトカインという物質の一種類です。だいぶ前に、日本人が発見しました。Hirano T, Yasukawa K, Harada H, et al : Complementary DNA for a novel human interleukin (BSF-2) that induces B lymphocytes to produce immunoglobulin. Nature 324:73–76, 1986

 ずいぶん昔に、悪性症候群で血清アルブミンが低下することを発見し論文化しましたが、なぜ、アルブミンが低下するかは分かりませんでした。悪性症候群の診断基準を作った人がその中に、褥瘡の形成をいれていました。しかし、その研究者はなぜ褥瘡が生じるかが分かっていませんでした。そのほかにも、栄養状態が悪いことが悪性症候群のリスクファクターとした研究者もいましたが、それも間違いなように思います。悪性症候群になると、急速にアルブミンもグロブリンも、したがって、総蛋白も低下し、栄養状態が悪かった人に悪性症候群が発症したかのように勘違いしてしまうのです。このように、世界の一流の研究者でもわからないことがあったり、間違った見解をもったりしています。

 さて、悪性症候群で、アルブミンが低下する理由が私にはわかりませんでしたし、世界のだれもアルブミンの低下さえ、気が付きませんので、分からないわけです。しかし、最近、炎症性サイトカインであるIL-6が悪性症候群の時にも高まることが報告されています。IL-6はさまざまな作用を持ちますが、血管透過性を高めて、アルブミンを血管外に急速に出してしまうということをずいぶん前に言っている研究者がいることがわかりました。Fleck A, Raines G, Hawker F, et al : Increased vascular permeability: a major cause of hypoalbuminaemia in disease and injury. Lancet  8432:781-784, 1985

 いろいろつなぎ合わせるとこうです。悪性症候群のリスクファクターはいろいろありますが、薬でいえば、もちろん、ドパミン系を強く遮断する抗精神病薬があげられますが、その他に、メトクラプラミド(プリンペラン)は、やはりドパミン系をブロックするので危ないです。悪性症候群になるとイレウス気味になる場合があり、その時に、メトクラプラミドを用いてしまうと、重篤な悪性症候群になってしまうのです。それから、リーマスは、排尿を促進し、脱水を導き出しますが、悪性症候群になりかけで無動になるときに脱水促進がすすめば危ないことは明らかです。

 さて、悪性症候群になってしまった場合に、IL-6が増加する、すると、血管透過性亢進がおこり、アルブミンが急速に低下する、これは、通常のアルブミンの産生と分解の速度をはるかにしのぐ急速な反応です。アルブミンの低下により、褥瘡が発生します。無動も関係するでしょう。

 ここまででもたいへん面白いのですが、これで終わりではありません。悪性症候群になったあと、回復した後に、何か月間とか半年とかかかって体内に変化が生じます。IgGが増加するのです。グロブリンが増加するのです。これは何か? 悪性症候群が感染ならわかります。A型肝炎に罹患した時に、何か月もかかって抗体ができる。それと同じような変化が体内に生まれるのです。それはなぜか?インターロイキン-6は、B細胞を活性化して抗体産生を促進します(例えばHirano T、1986)。悪性症候群が回復した後、徐々に、低下していたアルブミンは正常にもどっていきます。ところが、グロブリンは、一旦低下した後、もとよりずっと多くなってしまうのです。これら、一連の流れを生じさせるのが、IL-6をはじめとするサイトカインだろうと私は思うのです。

 さて、ウィシマさんが、悪性症候群でなかったかが気になります。検査結果をみると、アルブミンが低下しています。しかも、その何日か前に精神科医が薬を処方しています。何を投与したのか? ウィシマさんが動かなかったのは、悪性症候群の「無動」ではなかったか? 発熱はなかったのでしょうか? 私に投与薬物と検査結果、ビデオを見せてください。私は同業だからと言って精神科医をかばう気持ちは一切ありません(毒語)。真実が知りたいです。

 Fleckは、アルブミンの低下は栄養状態の悪さではなく、炎症によるのだといっています。わたしもそう思います。Fleck A : Clinical and nutritional aspects of changes in acute-phase proteins during inflammation. Proc Nutr Soc 48:347-54, 1989

 なぜわたしがそう思うかですが、かつて、キリスト教に関する妄想を持つ男性の患者さんがいて、入院したが、40日間食べないと言い出したのです。自らをキリストになぞらえて断食するというのです。実際に彼は40日間食べず、点滴だけは受け入れたのですが、当院でできるのは、ごく低カロリーの点滴だけで、たんぱく質など入っていないものでした。しかし、40日たってもアルブミンは不思議なことに低下していませんでした。Fleckの言う通り、アルブミンは主に炎症で低下するのです。

 さて、なぜ今、IL-6について書いたかですが、一つは、最近、IL-6が保険点数がついたようです。ちゃんと検査できるようになりました。それを知ったことが一つ。

そして、悪性症候群だけでなく、精神疾患の発病や再燃にもIL-6が深く関わっていることを私がはっきり意識し始めたからです。今後、お話ししていきたいと思います。

 精神科病院に勤めることはいいですよ。なにしろ、世界の研究者の知らないことを入院患者さんたちが教えてくれますから。 9月10日

ガンジー聖書 盗賊について

 ガンジー聖書と呼ばれている本があります。「獄中からの手紙」1930年、ガンジーは不服従運動などで、ヤラヴァダー刑務所に収監されていました。獄中からの手紙は、彼が修道場の同胞に書いた手紙です。

 「私たちが盗賊を罰するのは、彼らが私たちに害をなすと考えるからです。ところが盗賊は、わたしたちを襲わずにやりすごすかもしれません。けれどもそれは、彼らが他の犠牲者に狙いを向けただけのことです。目をつけられた他の犠牲者もまた人間であり、姿かたちをかえたわたしたち自身にほかなりません。・・・・」

 犯罪者の更生支援にかかわった岡本茂樹「反省させると犯罪者になります」。二宮金次郎の善悪一円の考え方。レ・ミゼラブルの神父が、盗みを犯した主人公に対して取った態度。どこか共通するものがあります。9月5日

 高級住宅地の児童相談所

 「障害は誰のものか」で述べましたが、障害はその障害を持った個人のものではなくて、みんなのものかもしれません。障害を分かち合うことはできないでしょうか。直接支援することができなくても、一部だけなら担うことができるかもしれません。
 東京都の高級住宅街の青山に児童相談所ができると聞いた近隣の住民からは反対の声が上がりました。環境が悪化するという理由だったと思います。児童相談所にはさまざまな不幸や障害や悲しみがあります。直接助けることはできなくても、地域に受け入れるだけでも大きな奉仕になるのではないでしょうか。ほんのわずかな犠牲を捧げるということです。
 当院の患者さんが外出して歩けなくなってしまったときに、病院まで連れてきてくれる近所の人がいました。何の見返りも求めない素晴らしい行為だと思います。その本人にも周囲にも大きな喜びを与えます。9月1日

 障害は誰のものか

 東京パラリンピックが開かれています。パラリンピックは精神障害者は参加しない大会だそうです。精神障害は、競技のスタートラインにも立つのですら困難にさせる障害なのかもしれません。
 身体障害にせよ、精神障害にせよ、障害とは誰に与えられたものなのでしょうか。その個人のようにもみえますが、そうではなくて、全体に与えられているはずのものとは考えられないでしょうか。本当は、自分にも与えられる障害であるのに、ある人だけに集中して与えられる、つまり、ある特定の人が自分の代わりに重荷を背負ってくれているとは考えられないでしょうか。
 そう考えると、自分の果たすべき責任も少しはまともに認識できるかもしれません。8月31日

ソローと金次郎の共通点

 偉人と偉人の共通点を探すのが好きです。ヘンリー・デヴィッド・ソロー(1817-1862)は、米国のボストン近くのコンコードに生まれ、ハーバード大学を卒業しました。一時期には、都会を離れて森の中に一人で生活し、「森の生活」を書いた偉大な思想家です。ゴールドラッシュに群がる人間の不健康さや馬鹿馬鹿しさを描き、人はどう生きるべきかを述べた講演「生き方の原則」の中で彼はこう語っています。
 「私はかつて薪(まき)の束を測る物差しを考案して、それをボストンで使ってもらおうとしました。しかし、薪を測定するボストンの担当者の話はこうでした。売り手は自分たちの薪を正しく測定してもらいたがらず、売り手はたいてい橋を越える前にチャールズタウンで薪を計らせているというのです」(ヘンリー・デヴイッド・ソロー:生き方の原則 山口晃訳 文遊社)
 二宮金次郎(1787-1856)は、1820年に、年貢米を計る桝(ます)を考案して藩に献納しました。その時、小田原には18種類もの桝があり、少しずつ自分に都合のよいように作られていました。金次郎の桝がその後、きちんと使われたかはよくわかりません。それでも、藩では一応認められ、金次郎の名前も武士の名前の下に小さく書状に書かれていますので、ソローの場合より良かったのかもしれません。金次郎も薪を売る仕事をしたことがあり、それが銅像になっていますね。薪という点でも共通しています。不当な取引により、誰かが徳をして、誰かが損をする、そういう理不尽さに2人とも堪えらえなかったのかもしれません。数学が堪能であった2人は同じような方法で問題を解決しようとしたのです。時間軸でみると、金次郎が桝(米の計測器)を作った後に、ソローが薪の計測器を作ったことになります。自分だけが得をするような努力をする、あるいは計画を立て、頭を使うことは、誰かを損させることになります。それは幸せには逆行するものだとソローは考えました。一攫千金を狙って、金鉱を掘り当てようとする努力が間違いであると指摘したのです。現代でもそういった思い違いが延々と続いているような気がします。
 金次郎は数学を用いて復興事業を行い、ソローは数学を用いた測量を生業とし、ナイチンゲールは、統計学を用いて感染症死亡率を下げたのです。同じ1800年代に、日本と米国と英国とで。8月30日 

スリランカ人の ウィシュマ さん

ネット上で拡散されたもの

 3月6日、名古屋出入国在留管理局の収容施設で、スリランカ出身のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなりました。妹さんが来日していますが、文書は黒塗り、動画も少しだけ妹さんに公開されただけのようです。

 亡くなった日の検査所見です。見たことのないような著しい異常値が並んでいます。直前に診た医師は精神科医らしいです。高血糖、肝障害、腎障害、低栄養状態、CPK上昇、高度貧血、アシドーシス・・・・。悪性症候群も最後に加わっているような気もします。

 もう、誰かをかばうのはやめてほしいし、口裏合わせもやめましょう。すべてを公開するしかないのではないでしょうか。8月22日

 

千葉真一 最後の仕事

 俳優の千葉真一氏が82歳でコロナウイルス感染症で亡くなってしまいました。テレビでの情報では、「体力に自信があるから」とおっしゃり、ワクチンは1回も受けてなかったそうです。キーハンターの時から不死身でしたから、最後まで自分らしい生き方だったのかもしれませんし、最強というイメージから、ワクチンを受けるということが、どうしてもできなかったのかもしれません。その辺はよくわかりませんが。しかし、「数々の戦場を乗り越えてきた千葉真一ですら、コロナにやられてしまった。皆さん、どうかワクチンを打ちましょう」と彼のご子息たちがアピールされたらどうでしょうか? 千葉真一の最後の大きな仕事になるのではないでしょうか。やっぱり、千葉真一は永遠のヒーローだと。キーハンターの中にうまくはまる言葉なりシーンなりがありませんかね。また、有名人向けの接種会場も必要かもしれませんね。  
 そのように話していたら、家族には「年だから」。 ・・・・ともかく最後にもう一度輝いてほしい。輝かせてほしいと思います。8月21日

努力は報われるか2

 テレビのインタビューで内村航平選手が、「努力は報われないと初めて思った」と語っていました。32歳の彼は鉄棒で東京オリンピックに出場。期待されましたが、落下してしまい、予選落ちしてしまいました。3日間はひどく落ち込んだというが、その後、周囲から温かくしてもらい、負けて得られるものがあったようなことを語っています。次の大会は、北九州の出身地の世界体操に出場です。「努力は報われる」と思うのか、「努力は報われない」と思うのか、「別な啓示」を受けるのか興味深いところです。
 100mの桐生選手などのように走ることが速い選手がいたとしましょう。小学校の運動会で断トツのトップ。中学に行っても一番。県大会に出ても優勝などとなります。どの段階で初めて負けるのかわかりませんが、それが全国大会という人もいるでしょうし、初めて負けたのが、オリンピックという人もごく希にいるかもしれません。現実には、どこかで初めて負けるが、それを努力で克服できる段階があり、そして、いつか、いくら努力しても、これ以上いけないということになるのかもしれません。変な考えかもしれませんが、強い選手は、負ける大会に出会うために競技しているともいえましょう。あるいは、いくら努力しても勝てない大会に出会います。だから、たいていの人にとっては、負ける大会が最高の舞台であるということになりましょう。極論すると、負けるために戦うとか、負けるために努力する。挫折するために切磋琢磨する、ということになってしまいます。どこか間違ってますか? 少なくとももっと、前向きな考えができる人でないと、勝負の世界を渡っていくのはとても無理ですね。8月19日
 

タトゥー

 オリンピックの選手。日本人はともかく、外国の方ではタトゥーを入れている人が非常に多かったですね。もう、当たり前という感じがしました。この心理と言うとその分析はとても難しいことになるので、触れませんが、日本の温泉やスーパー銭湯では、まだ、ダメなところが多いようです。それがいいのか、悪いのかはよくわかりませんが、温泉は入れないが、国立競技場や武道館は入れるということになり、国立競技場はや武道館は、スーパー銭湯よりも、ある意味で緩いというのか、寛容というか、先進的ということになってしまいます。一般的には、民間より、国立のが厳しい気がするがそうではないようです。10年たったら、また、事情は変わっているのでしょうね。アパホテルでは、「従来、利用規則によってタトゥーをした方の大浴場への入泉をお断りしていたが、3月19日(火)以降、タトゥーをした宿泊者が入泉を希望される場合、フロントにてポイントタトゥーカバーシール(10㎝×12㎝)を2枚まで無料で提供し、そのカバーシールで、タトゥーを覆うことで入泉可能とする」ということが、この3月からあったようです。ただ、タトゥーを入れている人は、それを誇りにしているのではないか、アイデンティティと密接に結びついているのではないか、あるいは、民族的な アイデンティティ と結びついている場合もあるそうなので、ふさわしくないものとして隠さないといけないというのをどのように理解できるのでしょう? このシールの名称は、「CAXEL」。隠さないといけないのは、善いものより悪いとされているものの方が多いです。やましいから隠すということの方が多い。さまざまな点で難しい問題を含んでいます。モーラステープLに似ているCAXEL。8月15日

努力は報われるのか

 オリンピック。選手は、まれにみる才能ととてつもない努力をして、オリンピックの舞台に立ちます。競争相手も、同じように才能に恵まれ、努力も怠らない。勝ち続けるのは本当にたいへんです。努力は、報われないことが多いでしょう。なぜなら、みんなが欲しいのが金メダル。銀メダルだったために、次のオリンピックで雪辱を果たすという思いの人も話を聞いていると多いようです。そのとき、選手たちは、努力は報われるのだろうかと不安に思わないのでしょうか? 努力すればそれだけの報酬もあると信じられることが生きるためには必要な気がします。努力に意味がないと思ってしまったらどうなるのでしょうか? 昔、どこかの国の拷問で、たくさんのレンガを積ませて何らかのものを作らせ、それができると破壊し、また、隣に同じものを作らせるというのがあると聞いたことがあります。
 ともかく、私のように、それに意味があるのだろうか? と考えてしまうような人間にはまったく向いていないでしょう。次のオリンピックまで、努力は報われるだろうかと考えてばかりで練習もしないでしょうから。こう考えるのは、やはり逃避というものなのでしょうか。考えるより、そこにあるものに手を付けろということでしょうか。

 オリンピックには、いろいろな感動がありますが、感動がどこから生まれるのかと考えてみると、予想と違うことということがあるでしょう。あの選手はこうなるだろうと思い、その本人もそうなると思い込んでいますが、実際は違うことが起きるということ。失敗も成功も予想と違うということが何かを生むのでしょうか。桃田が予選で負けてしまうとか、原沢は決勝でリネールと闘うはずで、5年間リネールに勝つことを考えてきたのに、他の日本人選手が先にリネールに勝ってしまうし、決勝で戦うはずだったのに、なぜか3位決定戦で戦うことになり、しかも、やっぱり5年前と同じように負けてしまうとは。問題はここからであり、どうやって人間は肯定感を取り戻していくのでしょうか。8月1日

小林賢太郎氏の解任

 寛容と不寛容について考えていると、毎日のように、題材に出逢います。小林賢太郎氏は、1998年5月に発売されたVHSの中の9分間の番組企画を題材にしたコントで「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」という言葉を使っています。これに誰が最初に気が付いたのかわかりませんが、ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)のことを揶揄したとして、サイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルスにあるホロコーストなどに関する言論の監視などを行う)が非難し、開会式の前日に解任になりました。ホロコーストのことと精神科のつながりと言えば、収容所に入れられたが何とか生き延びた、ユダヤ人精神科医ヴィクトル・フランクルです。夜と霧には、写真付きで、収容所の恐ろしい状況が語られています。ナチスは、自分たちを脅かす可能性のある者とか、反対するものに病的に過敏になっていきました。人間がここまでなぜできるのか不思議というしかありません。フランクルは、その後、ロゴテラピーという生きる意味の精神療法のようなものを行いました。日本でいえば、神谷美恵子という精神科医にどこか似ているところがあるように思えます。神谷はらい病施設で働いたことがあったと思います。ともかく、ホロコーストでは、600から800万人のユダヤ人が殺されたのです。一方、サイモン・ウィーゼンタール・センターは、イスラエルのガザ地区への無差別な攻撃については容認していると批判する人もいます。

 ともかく、まず、ヒトラーは過剰に不寛容だったのですが、少しでも許容したら、大変なことになると思っていたのでしょうか。著しく防衛的であるというか、心配性というか。そう簡単に結論できることではありませんが。不寛容の元には、不安、心配、過敏などが潜むこともあるように思います。

 小林氏には、国家的な仕事はさせられないということになったのですが、それは、23年前の9分間のコントの中の発言です。殺人を犯しても罪を償って出所してきている時間を経ています。はからずも、コントの内容は、「番組の企画」であり、そのために「開会式の企画」の仕事からはずされたのです。20年以上、その人にとってのテーマはかわっていないのかもしれません。

 さて、小林氏は、どうしたら罪を償って、また、国家的な仕事を堂々とすることができるのでしょうか。何か、このままだと永遠に復権できない気がします。これもまた、恐ろしい不寛容のように思います。どうしたらいいのでしょう?7月31日

人間関係の機微

 こういうことを言うとこうなるとか、こういうことをするとこうなるということは、子供の時から学びます。もっと具体的に言うと、この人にこう言ったら、この人は好反応するとかです。その予測が常にうまくいけば、そういう能力を完全に身に着ければ、人間関係はうまくいくのかもしれません。例えば、奥さんとの関係です。その琴線に触れるような言動を、常に回避できる能力や機知があれば平穏な日々を送れるかもしれません。そう思っていても、しばしば地雷を踏んでしまうことがあります。不快な思いをさせてしまうとか、傷つけてしまうとかいうことです。予測できるときもあれば、予測を超える場合とか、油断しているとか、いろいろあります。
 かといって、相手に合わせてばかりでいいのかということがあります。自分の目的は達成したい、それを難しい人間関係の中で、どう実現させていくのか、実に難しいところです。譲歩ばかりもしていられない、かといって、恨みを買って、目的が疎外されても困ります。でも、こういうことをすればこうなるという知恵は必要でしょう。それがわかっていても敢えてするということがあったとしても。レ・ミゼラブルの中で、神父は主人公の横暴に対して、驚くべき受容をしたのです。普通では考えられない対応をしました。それによってすべてが変わりました。何かを変えるのには、間違いを指摘する、反省させる、ではなくて、受け入れがたいものへの喜びに満ちた受容なのではないでしょうか。
 では、精神科医はどうすればよいか? 基本的には受容と傾聴とされますね。やはり、クライエントにとってもっとも有効なのは、治療者が正しいと思う意見を言うとか、間違いを指摘するとか、反省させるとかではなくて、受容するということなのでしょう。人はそれぞれ相当の苦労をして、その時点にたどり着いたのですから、それは尊重されるべきでしょう。でも、それが受け入れられないものだったら? 受け入れられないのはなぜでしょう? 7月21日

コロナに関する寛容と不寛容

 日本では、コロナウイルスの新規感染者の最近1週間の平均は、1日当たり3,000人ほどです。死者は14人。一方、イギリスでは、新規感染者4.5万人、死者40人。しかし、人口は、日本1.27億人、イギリス0.68億人であり、これから計算すると、イギリスの新規感染者は、1日当たり 8.4万人、死者は、74.7人。つまり、1日当たりの感染者は28倍、死者は5.3倍。それでも、イギリス政府は、コロナの規制をほとんど撤廃。マスクなしで、飲食もパブも可。 いったいこの違いは何でしょう? 米国でも同様。日本の人口に合わせて計算しても3倍の新規感染者、毎日の死者は日本の8.9倍!実数では30倍近いです。 これでは、米国が日本をコロナ危険区域に指定するなど意味不明。オリンピックもイギリスでやれば、満員の観客で開催できるということになります。イギリスや米国の国民は自国の現状をちゃんと知らされていないのではないかと思ってしまいます。あまり人が死んでも気にしないのでしょうか? 死に関して寛容なのでしょうか? 第2次大戦の死者数は、日本310万人、米国30万人、イギリス40万人。コロナの死者数は、米国61万人(1位)、イギリス12.3万人、日本1.5万人。しかも日本の人口は、世界11位の多さです。米国は戦争には強くてもコロナ感染症には弱いということは明らかです。したがって、人口当たりの死者数や順位はさらにぐっと下がります。オリンピックの日本での開催を諸外国が危惧するなどというのは、まったく根拠がない気がします。諸外国は自国は安全だと国民に思わせているのではないのでしょうか? 7月20日

寛容と不寛容のあいだ

 人はどういうときに寛容になり、どういうときに不寛容であるべきか? そんなのは、自然にまかせておけばいい、という人もいるかもしれません。ほとんどの人は、ふつうそんなことを考えないかもしれません。しかし、怒りが動物のように無制御では困ります。「怒り」などで本を検索すると、ほとんどが、怒りをいかにコントロールするかという内容の本になります。しかし、少数派ですが、怒りの発散を推奨する本もあり、面白いところです。 上述の聖書の場合ですが、イエスは、自分が冒とくされても怒るな、ただし、神の尊厳を傷つける場合は許さないということかもしれません。機会があれば、聞いてみたいところです。イエスにではなく、神父さん、牧師さんに。 しかし、イエスのおひざ元のイスラエル近辺では、不寛容が支配しています。報復が正しい事と信じられています。正義というのは、その立場によってまるで異なります。金次郎やスピノザが言うまでもなく。 池袋の交通事故から丸2年。あれを寛容に受け止めよなどということはできないでしょう。禁固7年求刑。 復讐とかかたき討ち、忠臣蔵とかはどうなんでしょうか。復讐はやめたという人も誰かいましたね。結論としては、もちろん復讐は意味がないでしょうし、間違っています。ただ、民衆は狂喜することも多いですね。それは、それぞれの心の中にある鬱憤を代わりに果たしてくれるような感じがするからでしょうか。そう「倍返し」とかです。7月18日

寛容の続き

 寛容とは何か?新約聖書のマタイによる福音書18章にこういところがあります。「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『兄弟が私に対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。 それから、イエスは宮にはいられた。そしてみやの庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「私の家は、祈りの家ととなえられるべきである」と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。マタイ21章 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「わたいの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである」と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。マルコ11章 イエスはイスラエルに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出ていけ。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。 以上からわかることは、イエスは、寛容の重要さを述べて、弟子に対して十分に寛容であることをすすめています。しかし、宮では、「いいですよ。ここは神様の門前ですけれども商売をなさってもいいですよ、どうぞ、どうぞ」とは言いません。ここでは、イエスは寛容ではありません。ある時は寛容で、ある時は寛容でない。どういう場面で人は寛容であるべきで、どういう場面で寛容でないべきか?どうでしょう? 私には答えは分かりませんが、問題提起だけさせていただきます。 さて、私は、このようなことが聖書のどこに書いてあるかなど覚えてはいません。「イエス 怒る」などと検索すればすぐにでてきます。検索とか検索力とかいうのは、世界を動かすようなすごいことと思ってしまいます。若者が得意なんでしょうけれども。本当に検索力は世界を制するか?あっそうか、すでにグーグルは世界を制しているか? しかし、検索がつながっているのは過去です。創造は過去の集積から生まれるのでしょうか?別なような気もします。でも検索は便利です。一般人には。デジタルの圧倒的な優位性は検索にあると思います。「索引」も画期的かつ斬新だったと思いますが。 どういうときに寛容であり、どういう時に寛容でないことが望ましいのか?また、後日考えます。7月16日

寛容と不寛容 

 ゴミ出しの問題から寛容と不寛容の問題について考えてみます。不寛容だなあと思うことの一つに論文の審査があります。投稿してもなかなか採用してもらえません。いかに正しく不寛容であることが良いことであるとされているようにも思います。確かに、不正な論文を編集委員会が通してしまうと後から問題になるということがありますね。だから、厳密な方向にすすんでしまう。失敗しないように。しかし、Nature などでも失敗するのだから大丈夫だと思いますが。本当にこんなことが言えるのかというギリギリの内容の論文の方がやがて大きなことにつながっていくのですから。たぶん、アインシュタインの論文にしても、数学の難問の論文にしても、審査する方がわかるかどうかというぎりぎりの独創性にあるのでしょうから。 精神神経学会誌をはじめ、精神医学の学術雑誌に掲載される原著論文数は、以前と比べてずっと少なくなっているように思います。原著論文のない号が多くなっています。それでは、革新的なことは起こらず、どんどん衰退していくのではないでしょうか。安全ではありますが。こういうのは、何か月前に投稿した論文が却下されたからです。以前、欧米の雑誌に2-3投稿したことがあります。英語もよくできないので全敗ですが、審査してほしい研究者を5人選んでそのメールアドレスを記載しろといわれます。それも苦労しましたが、それぞれの研究者が名前入りで結果をくれ、編集長も名前入りで結果を文章にして返してきます。こちらも明確に理解できます。ところが、日本の少なくとも精神科の学術誌では、だれが審査し、最終的に誰が判定したかが隠されていることがほとんどです。中にはちゃんと公表している学術誌もありますが。精神医学の分野に限らず、良い方向に進んでもらわないとすぐに学問も科学技術も衰退する気がして怖いです。 その他に不寛容なものとして、身近なところでは、精神科で山ほどある意見書とか、診断書とかの書類の審査です。私が長をしている審査機関に私が書類を出すことがありますが、ときどき返戻されてくることがあります。返す人も困るでしょうけど。前任者にはそういうことは1回もなかったように思います。しかし、不思議なもので、審査する側だと、書類の不備を見つけることが重要なのだと思ってくることです。だんだん、不寛容になり、不備を見つけると手柄をとったかのように思ってしまうのです。一番大切なことが何なのか、何のために審査しているのかということに立ち戻らなくてはならないでしょう。 書類を作っているとき、自分は医者なのかということです。そんなことを考えると、書類に掛ける時間を極力減らしたいと思っています。それが正しいのかどうかわかりませんが、診察時間を長くしたいので、患者さんがいないところで、書類だけ書いている時間にはあまり価値がないと思ってしまうのです。もちろん、過去の良く整理されたカルテは、治療に有効かもしれません。ただ、書類というのは、90%の精度のものを作るのに1時間かかるとすると、それを95%の精度にするのに、もう1時間かかってしまいます。98%にするには3時間かかるかもしれません。であると、90%でいいやと思ってしまうわけです。ただ、もちろん正しくは、30分で95%のものを作る技術や環境の整備だということになるのかもしれませんが。 ゴミ出しにもどりますが、地域によって分別の細かさが違っています。ネットで調べると、横浜市は、10分別くらいあるようです。分別を正しくすることによって、効率よくごみ処理ができるのはわかります。しかし、やはり、分別に時間と神経を使いたくないと思ってしまいます。優秀なゴミ分別者になるのでなく、良い医者になった方がよいと思いますので。やがては、自動分別機つきの処理工場などができてほしいです。 ああそうです。大切なことがありました。不寛容な世界に生きにくいのは、精神科の患者さんです。「失敗し だめだと言われる その連鎖」。7月9日

ごみ捨ての失敗

 郵便ポストを通じて、善いものも悪いものも来ます。合格通知とか、不採用通知、ラブレターも未だにあるかもしれません。幸せも不幸も郵便ポストを通じてくる場合があります。他の窓口もたくさんできましたが、なかなかの力を保っています。それにしても、ときどき恐ろしいのが来るものです。最近もとてつもないものをいただきました。たぶん、皆さんはもらったことのないものです。

 イチキュッパは、イチキュッパなのですが、なんと、1980万円です。かごに入れたらたいへん。 図書館ではどうか。都立図書館の蔵書検索ではヒットなし。ありません。国会図書館では、さすがありますね。デジタルですぐ見られるのもあります。すごいです。ただ、漢文なので読めないですね。益軒も漢文で書いていたのでしょうけれども、その訳の多くが松田道雄によります。小児科の医師で、「育児の百科」は今でも店頭に並んでいますね。何十年も前のものが。奇跡的です。7月4日

 どうです。よく見てください。実は、ぼーっとしていて、燃えごみをプラごみの日に出してしまったのです。私の書類とかだけだったので他の家庭ごみはなかったのですが、ごみ袋に私の名前が書いてあるわけではありません。ということは、ごみ袋をどこかで開けられ、中の私の名前と住所の書いてある封筒などを見つけ、この文書を私の家のポストに投函したものと思われます。見られてまずいものはなかったとは思いますが、ごみの中には、チョー恥ずかしいものが入っている危険もあります。それが見られちゃったら、どうにもならないのではないでしょうか。つまり、チョー恥ずかしいものと、住所、名前が書いてある書類などが一緒に入っていたら。 男ならまだいいかもしれませんが、女性だったら、恐ろしくなってしまうのではないでしょうか。ごみを別の日に出されて迷惑なのはわかります。しかし、場合によっては、恥ずかしいやら、恐ろしいやらで、そこに住めなくなってしまうような思いをすることもあるのではないでしょうか。法的には問題ないようなのですが、インパクト強すぎです。さらにこれを回収したのが、カミさんだったので、二重の苦しみとなりました。 最近、寛容の大切さについて学習していましたが、不寛容(失礼)に対する寛容こそ、寛容の中の寛容なのでしょうかなどと考えてしまいます。 話はかわりますが、ヴォルテールも、貝原益軒も、イエス・キリストも寛容を勧めているわけですが、寛容を重ね続けていったらどうなるのでしょうか。結局損することになるのでしょうか? 人が寛容であることを許せない人もいます。「そんな甘いことじゃだめだ!」とか。何が正しいのでしょうか。法が裁けばいいのでしょうか? 7月7日

通鑑綱目(つがんこうもく)

通鑑綱目を探してみました。アマゾンには出品されてないようです。古書の方で検索してみましたら、手に入るようです。大変なボリュームなようで、その一部を売っているところもあります。しかし、そろっているとたいへん高額です。

不完全について

 不完全で思い出しました。貝原益軒の「大和俗訓」の中に、「わが衣食・住居・器物・財用などことごとに、わが心を十分に満ちさせようと思ってはならない。つねに不足のことがあるほうがよい。十分心にかなうと禍がある。『家のいらかをふきて三瓦をおおわず。衣のえりを欠くもこの意なり』と古人はいっている」とあります。意味は分かりますが、この出典がどうしてもわかりません。図書館でことわざ辞典などをみてもわからないし、ネットで検索してもわかりません。古人はだれでしょう。今、思いつきましたが、益軒は自分が勉強したことを「初学知要」という本に残しています。読んでないけど買ってはいます。今度探してみましょう。 ところで、「大和俗訓」は、二宮金次郎も感銘を受けた本です。金次郎の主君の大久保忠真もこの本さえあればと言ってたと思います。ところで、益軒は、自分が最も良い本だと思うのは、朱子の通鑑綱目(つがんこうもく)だと言っています。確か大和俗訓の中で。それを聞くと、読んでみたくなりますが、残念ながらそう簡単には手に入らなそうです。7月3日

反省させると

 病識がなくても治療はできるから不思議です。精神科の治療というのは、自分が精神病だと正しく認識して、きちんと病気を認識して治療を受け入れるということは困難であり、それをいつも目指すべきではないように思います。不十分なままでもそれはできるのでhないでしょうか。統合失調症だということがどうしても受け入れられない気持ちはわかります。それはそれでもいいのではないでしょうか。それをわからせるなどというのは無理があるように思います。 「反省させると犯罪者になります」という本がありましたが、なるほどと思いました。人間は、自分の非を受け入れるものではないでしょう。本当に反省するというのは、なかなかできないのではないですか。弊害の方が大きいように思います。わからなくても何とかなる、認識が異なっていても最低限何とかなるのではないでしょうか。そういう意味での寛容はやはり大切なようにも思います。不完全なもの、足りないものが好きです。6月29日

はじめに

 いろいろな偉人のうつ病というか、精神的問題を調べてきて分かったことは何か? 一つ思いついたのは、偉人は感じやすすぎたり、不安になりやすかったり、気持ちが暗くなりやすかったり、対人交流が下手だったりという欠陥を生来持っていて、生活全体が低調の方向に向かってしまいますが、それを打開しようとして、いろいろな対処を求めていくということがあるのではないでしょうか。それは、生き方であるとか、生きがいの追求であったり、華々しい成功とか創造、発見、発明、自分を救う哲学や芸術であったり、道徳や修養、宗教的な覚醒であったりするのではないでしょうか。 偉人たちの幼少期や青年期にはその欠陥や欠損あるいは不自由などがしばしばみられるように思います。つまり、偉人の偉人たる仕事は、対処であり、修復であり、補うものであるということかもしれません。そうすると、補って余りある場合や、努力したにもかかわらず、闇が深すぎて追いつけなかった、負けてしまったということも当然あるでしょう。①欠陥と②強い生命力ないし向上への意欲が必要な条件なのかもしれません。 「欠陥」ですが、それは、うつ病とかの精神疾患などに親和性がある事態といえるかもしれません。欠陥が重篤であるほど、それを補うものも大きくなければなりませんし、場合によっては、長い年月に渡って、格闘し続けることもあります。あるいは、ゲーテのように、あるときは自信に満ち、生産的で、ある時は非生産的で、翻弄されつつも、偉大な仕事をなすということもありましょう。対応し続け、素晴らしい成果を挙げたのに、最後にはその闇に負けてしまうという形になったトルストイとかもいます。6月28日