うつ病になった二宮金次郎 その4
うつ病と考えたことの理由について
金次郎の性格について
金次郎は,服部家を再興したことで金次郎は報酬として大金を得たのですが,自分のものとせずに下男らに分配していますし,親族との土地問題では相手側の有利になるよう譲っています。30歳代には桝の規格が不揃いで農民が年貢米納入時に不利になっていたのを統一し,小田原藩から賞状を得ています。後には自らも桜町で表彰制度を整えてもいます。これらの事実や「推譲」,「無利息貸付」などの実行から,金次郎の人生には他者の役に立とうとする強い他者志向性が貫いていることがわかります。自己中心性とは対極ですね。
完全主義的で慎重な性質も目立っています。金次郎は桜町赴任前に8回もの実地検分を行い,やがて行った日光仕法の折には,過去長期の出納を詳細に調査して膨大な仕法書を残しているそうです。自分の知り得た法則を徹底し,厳密な計算によって分度を導き,再建計画を作成した。熱中性,根気,強い意志などが感じられます。小林は,同時代の数理経済学者アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー*[1]と同様の精密さを金次郎に想起すると言い,「金次郎は集中して徹底的な調査をしないと気が済まない性質であった」と述べている。細かい金額まで詳細に記載された日記29)には,金次郎の几帳面さが表れているとも言えましょう。
うつ病の病前性格の研究で有名な下田は,「普通の神経衰弱は過労さえあれば誰にでも起こるが,憂鬱症は事業失敗および不況,業務熱中および過労についで起こることが断然多く,しかも憂鬱症は特殊な素質を持った人だけに起きる」としています。「この特殊の素質が平素の性格によく現れている」とし,これを執着性格としています。「下田の執着気質」として精神医学では有名です。その特徴として,徹底的,仕事熱心,凝り性,正直,几帳面,正確,強い責任感,ごまかしやずぼらができない,実務家であり空想家でないことをあげています。
金次郎が,下田の執着性格の特徴を持っていることは明らかではありませんか。また,下田は,「ある期間の過労(誘因)により睡眠障害,疲労をはじめとする神経衰弱症候を発し正常人では休養状態に入るが,執着性格者にあっては感情興奮性の異常により休養生活に入ることができず疲弊に抵抗して活動を続け抑うつ症候群を発する」といいます。「これによって初めて疲弊の原因から逃避できる」と述べましたが,これもまたますます金次郎の場合に合致するように思えます。
Tellenbach,H.(テレンバッハ)は,単極性うつ病の病前性格としてメランコリー親和型をあげ,基本的特徴として,勤勉性,良心的,責任感,堅固という秩序性(几帳面)と,自己の仕事に対する高い要求水準があるとしました。メランコリー親和型の人は,自らの課題を高く設定し,また,自分が他人のための役割を果たしているかに敏感であるとしました。金次郎の性格には,仕事に対する高い要求水準や上述のような他者志向性がみられ,Tellenbach,H.のメランコリー親和型の病前性格の特徴も概ね有しているようにみえます。笠原は,下田の執着性格とTellenbach,H.のメランコリー親和型性格を対比し,下田の記述には,熱中性,凝り性,執着性,徹底性という精力性が強調されているとし,それに対してメランコリー親和型性格は元来弱力性優位で,精力性の混在する割合が高いほど躁病相や非定型精神病の病像が生じやすいとしています。そして,下田の執着性格は躁うつ病の病前性格とみる方がよいとし,元来単相性うつ病の病前性格であるメランコリー親和型性格とニュアンスを異にすると述べています。この笠原の考え方によれば,精力性を持つ金次郎の病前性格は,下田の執着性格により近いと考えられるのです。
ところで,うつ病の病前性格は,テレンバッハのドイツと下田の日本以外では,あまりうつ病との関係が強調されていません。ドイツと日本は,几帳面さや細かさで似ていませんか。時計,自動車などの精密機器と関係はないでしょうか。面白いですね。面白くないですか?料理の繊細さが違うのはどうしてでしょう。この辺も考察すると面白そうですね。
症状,診断,回復過程
文政9年頃から,仕法に障害が目立ってきたが,文政9年の収納自体は豊作で,収納米も仕法開始以来の最高となったようです。当然,文政10年は躍進が期待されるが,出入帳の集計や報徳金の活用量はなぜか減少,特に開発費が著しく減少しています。この経済活動の停滞は,文政10年2月の金次郎の初めてのひきこもりに起因するかもしれません。文政11年に陣屋の仕事はさらに不活発化し,荒れ地開発料の支払いや木綿生産がほとんどなくなりました。そして文政11年の収納は上述のように前年に比して半減してしまったということです。これらは,金次郎のさらなる活動性の低下と関係があると思われ,その背景に,うつ病による生産性の低下があったのではないかと推測します。
失踪前の道歌には,前述のように「憂い」の感情が頻出しており,抑うつ気分があったことは確かなように思われます。また,文政11年5月の役儀願書には,自分の成果を過小評価し,自分あるいは自分の仕事には価値がないと表現されています。文面通りに受け取るならば,「強いさしこみ」の訴えにみられる身体症状への固執からは心気妄想が,役目が果たせないのは自分の失敗のためとする罪業妄想が,未来永劫解決できないという永遠妄想が,不完全な形にせよ当時の金次郎に一時的に存在した可能性があると私は考えますがいかがでしょう。
金次郎が2年連続で冬季にひきこもっていること,金次郎の意欲減退を思わせる生産性の低下があること,役儀願書にうつ病性の妄想に近い症状の記載があること,道歌に抑うつ気分が示されていること,金次郎の性格が他者志向的な面を持つ執着性格であることなどから,金次郎は文政12年1月の前後において,うつ病エピソードを呈しており,回避的なメカニズムから失踪に至った可能性が高いと私は総合的に考えました。
しかし,中井は,「金次郎は執着性格を持ちながらも,強靭さと柔軟さを備えている」とし,「多くの執着性格的努力が不全感のために落ち込み,努力の有効性を低下させるが,金次郎は焦慮を顕在化させないために成功した」としています。うつ病であるとは述べていません。臺は,金次郎を「わが国で生活困難の援助を計画的に実行した最初の人」であるとし,「生活療法の開祖と考える」(主に群馬大学の精神科で一時隆盛だった治療法のこと)とし,「断食修行は現在のハン・ストであり,うつ病相があったとは考え難い」としています。精神医学のこれら巨頭と対決しようとも思いませんが,こうしてお話しできたことで十分満足です。
このように失踪が金次郎の計画的な行為であり,病的状態によるものではないとされる理由として,通常もっとも重視される参考資料である報徳記の影響があげられます。富田は「尊徳は嘆息して言った。・・・『思うにわたしの誠意がまだ至らぬからであろう。かりにも誠意が到達すれば,どのようなことでも成就しないはずはない』として,ひそかに陣屋を出て成田山におもむき,21日間断食して祈願した」とだけ記述している。役儀願書11)や道歌28)に示される抑うつ気分を思わせる表現はなく,他者の妨害が自分の至らないためと解釈する高い人格特性が当時の金次郎にあるとされています。しかし,この特性は,実際には開眼以降に金次郎に目立つようになった人格特性のように思えます。同様に,「金次郎は焦慮を顕在化させない」7)という性質も開眼以降の金次郎の特徴ではないだろうかと私は思います。
富田24,25)が金次郎門下となったのは,失踪事件から10年後の天保10年(1839年)であり,失踪当時の記述が自己の直接の見聞でないこと,師への畏敬の思いが勝ちすぎていることを二宮康裕13)は指摘しています。富田は金次郎の死亡後,伝記作成を作家に依頼しましたが,出来栄えに不満であり,自ら著述し直しています。また,金次郎が身長180cmを超える巨躯とされたこと,読書しながら歩く金次郎少年像,金次郎対万兵衛,豊田正作との正邪の構図など,富田が記述した金次郎像はさまざまな事実から逸話性が高く信頼性に問題のある部分があることを二宮康裕は指摘しています。子孫の方なので謙遜もあるのでしょうか。これらを考慮すると,金次郎を描写する際に,意気消沈や憂鬱な気分,弱音の吐露,役儀願書の提出などの負のイメージを想定させる表現は,富田により意識的にせよ無意識的にせよ偉人伝には不要とされ,詳述を避けられたと考えることもできますが,穿ちすぎでしょうか。
次に,うつ病エピソードの回復過程について考えます。文政12年1月20日に金次郎が行方不明になってから成田山に到着するまでの間,上述のように消息が不明とされていたが,文政12年2月吉日付けで金次郎が母親の実家の当主にあてた文書が小田原報徳二宮神社で近年発見されたとのことです18)。これは,日本精神病理学会の編集者の方が教えてくださったものです。たまげました。こんなこと何で知ったのかと。「このたび,相州足柄下郡曽我別所村の,母方の在所へ,祖父母の仏参に来てみたところ,はなはだ困窮して昔の形を失い,嘆かわしい姿になっている。・・・文政5年から赴任したところ,天なるかな時なるかな,人民に勤労意欲が出,・・・存外の成就をみた。このような功ある身は父母の陰徳による。・・・元金は私が出すから,米を買い入れて近村隣家の助けになろうと心がけよ・・・南無阿弥陀仏」と記載されています。この時期に母方実家近くに帰郷していたこと,桜町の仕法の実績を高く自己評価していることがわかります。失踪前の役儀願書の内容と異なり,肯定的な捉え方に変わってきています。2月の吉日がいつごろか不明なものの,失踪後比較的早い段階で回復に向かったことが推測されます。ただし,この文書の表現は,どこか自分に言い聞かせているようにも感じられ,やはり回復途上なのではないかという印象を受けます。また,「南無阿弥陀仏」は主に浄土宗との関係が深いでしょうか。しかし,仏教という点では成田山参篭を予測させるものであるといえます。金次郎が成田山に向かったのはなおこの時点で不全感を感じていたのではないでしょうか。3月中旬に成田山到着時には上述したように,さらに軽快していたと考えることができます。金次郎は4月の始め成田山において,ようやく完全回復と絶対安心を得られたと考えることができ,うつ病の回復に1月から4月までの3ヶ月を要したと考えます。これは,内因性うつ病の患者さんが治るるのとほぼ同じ期間です。
下位分類と鑑別診断
金次郎にみられた失踪がうつ病エピソードに関連するものだと筆者は考えたが,内因性,心因性(反応性)という下位分類に関する問題があります。
仕法の進捗が思い通りでないこと,強力な抵抗者という心因の存在すること,心因となる状況から離れたことで回復が比較的早く訪れたことなどの事実は,反応性うつ病の可能性を疑わせますが,病前性格の特徴,役儀願書に妄想を思わせる表現があること,願書提出自体が金次郎には奇異で了解しがたいこと,身体症状の訴えがあったことから内因性うつ病の可能性がより高いと考えました。知力,経験知に優れた金次郎の場合には,反応性にうつ状態になることが想定しにくく,この金次郎にして抗しえなかった強い心身の不調と通常の金次郎からは了解しがたい行動の背景に一時的にせよ内因性の病態が働いたのではないかと筆者は推論します。ただし,内因性,反応性を確定するのに十分な資料は現存せず,また,近年その概念が必ずしも統一していないことから,両者の峻別は困難でもあります。
次に,今回のうつ病エピソードの前後を通観した場合,双極性障害の可能性がないか検討する必要があります。日記中には,金銭の浪費が高まった記述や飲食,睡眠についての変動の記述はなく,明らかな躁病の病相と思われる気分変動や逸脱行動は文献上には見当たりません。しかし,日光今市の報徳文庫に収蔵されている金次郎の著作原本は2,500冊(600か所の仕法書が主)に及び,世界一の著述量とも言われます5)。金次郎は常人よりはるかに多い生産性を維持し,睡眠時間も短く一貫して活動的であったのは事実であります。それも突き動かされているという感じがしないではありません。休むこともできない。これらの精力性の強さの背景に軽そう状態が存在した可能性,つまり金次郎が双極性障害である可能性も考えられます。しかし,うつ病エピソードの存在を示す資料の多さに比べて,軽躁状態の存在を裏付ける文献的記述は乏しく,社会生活に影響を与えるほどの病相は現時点では確認できませんとするしかありません。
*[1] Antoine Augustin Cournot (1801-1877)はフランスの哲学者,数学者,経済学者。経済分析において数学の公式や記号の適用を行い,関数と確率の考えを最も先進的に経済分析に導入した。数理経済学の始祖とされる。
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