二宮金次郎 栃木県真岡市を訪ねて
二宮金次郎(以下敬称略)について、いろいろと書いてきました。小田原の金次郎の生家、記念館、神社等は、訪ねたことがあるのですが、金次郎の仕事の地である桜町(現真岡市)には、行ったことがありませんでした。この令和元年5月1日に桜町の二宮尊徳資料館に行ってきましたので、ご報告させてください。資料館についたのは昼過ぎでしたが、他の観光地とは異なり、駐車場にはほとんど車が止まっていませんでした。資料館に入ってみても見学者は誰もおらず、ご年配の管理の男性から、お名前をと言われ記帳しましたが、私の前には2人の名前しかありませんでした。小田原の記念館に行った時も、閑散としていたことを思い出しましたが、日本を代表する偉人なのに見学者の少なさは残念なことだと思います。私たちは金次郎から多くのことを学べますし、日常生活の一つの指針にすることもできます。金次郎に関心を持ってくださる方が少しでも増えるといいのですが。
資料館では、まず7分間のアニメビデオを見ました。内容は、金次郎の生涯のできごとを簡単にまとめたもので、金次郎のことを知らない人には入りやすいビデオになっています。その後に、金次郎が褒美であたえた鍬(くわ)や弁当箱、陣笠、脇差、直筆の書状などの現物をみることができました。たいへんに貴重なものであり、金次郎がよりリアルに感じられました。
その資料館で、私が関心を持ったのは、娘の文(ふみ)の書や絵画です。はじめて知ったのですが、文は桜町で生まれ、書や絵を専門家に習い、15歳の時から桜町陣屋の帳簿の記帳や管理を行い金次郎を支えたとのことです。そして、29歳の時、金次郎の弟子の富田高慶と相馬市で結婚します。翌年に妊娠し、金次郎と母の波(なみ)のいる陣屋に帰りましたが、死産し、しかも産後の肥立ちが悪いまま、陣屋で亡くなりました。富田高慶は、やがて金次郎の伝記である報徳記を書きますが、富田、金次郎、波の悲しみといったら想像もできません。他者のために、社会のために、自分を捨てて、貢献する人間にどうしてそんな悲劇が訪れなければいけないのか。読んだことはありませんが、キリスト教でいえばヨブ記と同じようなものでしょうか。何か、善行さと不釣り合いな悲劇です。貝原益軒でいえば、大和俗訓に「天命に常と変がある。・・・善人に禍があって、悪人に福があるのは変である。・・・ただ、人の法を行って天命を待つがよい。善を行って、もし禍があっても、これまた天命の変であるから、悲しんではならない」という言葉があります。大和俗訓を読んでおり、周囲にもすすめていた金次郎は、この言葉を受け入れたのでしょうか。また、改革の意欲が衰えなかったのでしょうか。
資料館の後、当時の柱などを残して復興された陣屋(金次郎の仕事場、役所)をみました。茅葺で、土間があり、5-6部屋のある普通の農家のようにみえます。実は、私の父は栃木県の農家の四男であり、その栃木の実家も似たような作りなのです。陣屋は役所ではありますが、普通の農家と大差ないものです。周囲はよく整えられており、資料館も無料ですので、関心を持たれた方は、栃木、茨城方面に行かれた方はぜひお立ち寄りください。何とか残ってくれないといけないように思います。
パンフレットの「二宮尊徳の教え」を原文のまま載せさせていただきます。
至誠
至誠とは真心であり、「我が道は至誠と実行のみ」(夜話139)という言葉の通り、尊徳の仕法や思想、そして生き方のすべてを貫いている精神です。
分度
人は自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい生活を送ることが大切であり、収入に応じた一定の基準(分度)を設定し、その範囲内で生活することの必要性を説きました。
積小為大(せきしょういだい)
小さな努力の積み重ねが、やがて大きな収穫や発展に結びつくという教えです。小事をおろそかにする者に、大事が果たせるわけがないと尊徳は考えました。
勤労
人は働くことによって、生産物を得て生きていくことができる。また、働くことを通して知恵を磨き、自己を向上させることができると説きました。
推譲
節約によって余った分は家族や子孫のために蓄えたり(自譲)、他人や社会のために譲ったり(他譲)することにより、人間らしい幸福な社会ができると尊徳は考えました。
一円融合
すべてのものは互いに働き合い、一体となって結果が出るという教えです。例えば、植物が育つには水、温度、土、日光、養分、炭酸ガスなど、いろいろなものの徳が溶け合ってひとつになって育ちます。
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