ラッセルの幸福論で幸福になる 5 「ねたみ」

 ラッセルは、不幸の原因を順番に取り上げていきます。次は、「ねたみ」です。

 ねたみは、1歳未満の子供にもみられるもので、1人の子供だけかわいがれば、即座に気づかれて恨みを持たれる。子供を扱う人は、物を分け与える時には、厳格な一貫した公平さを順守する必要がある。

 ある時、ラッセルの家のメイドの一人が結婚し妊娠したので、重い物は持たなくていいと言ったところ、ほかの誰もが重い物を持たなくなった。

 ねたみは、民主主義の基礎である。紀元前エフェソス(トルコ西部の古代都市)の市民が「われわれの中に一番になる者がいてはならない」と優れた市民であったヘルモドロスを追放したので、ギリシャの哲学者ヘラクレイトス(エフェソス出身)は、おとなは皆首をくくって若者に町をまかせた方がいいと憤慨した。

 徒競走で、順位を付けないとか、皆が一番という教育もあります。皆と違う能力のある人に救われる可能性があるのに、ねたみのためにダメにしてしまいます。

 民主主義の理論を推進したのは、疑いもなく、ねたみの情念である。理論はカモフラージュである。普通のまっとうな婦人たちの間でも、ねたみはとてつもなく大きな役割を果たしている。スキャンダル好きもこうした一般的な意地悪の一つの表れである。ほかの女性のかんばしくないうわさは、たちまち信じられる。

 主義主張の裏には、いつも違った動機があります。それは隠され、代わりに誰でも納得のいくようなありきたりな理由が提示されます。平等を主張する隠れた理由に「ねたみ」があるとすれば残念なことです。

 男性でも同じだが、女性がすべての女性を競争相手と見るのに対して、男性の場合は、概して同業の男性に対してのみ、この感情を抱く。ある芸術家の事を他の芸術家の前でほめるという軽率なことをしたことがあろうか。あるエジプト学者を他のエジプト学者の前でほめれば、爆発的な嫉妬を誘発したはずである。

 ライプニッツとホイヘンスは、ニュートンが気がおかしくなったといううわさを聞いて、「ニュートン氏の比類なき天才が、理性の喪失によって曇らされたなんて悲しいことではありませんか」と次々と手紙を書き送って面白がっていた。

 ともかく人間は、優位性に敏感だということでしょうか。優位性に敏感でなければ生存できないという時代には必要だったのかもしれません。他人の評価というのは必ずしも一貫したものではありませんし、人間の評価は自分の立場からの評価なので、普遍的なものではありません。正しく評価するのは神だけなのかもしれません。
「ねたみ」は,多くの人が望ましくない感情であるとしますが,それを自覚することは難しいといえます。

 普通の人間性の特徴の中で、ねたみが最も不幸なものである。ねたみ深い人は、他人に災いを与えたいと思い、罰を受けずにそうできるときには必ずそうするだけでなく、ねたみによって、われとわが身を不幸にしている。自分の持っているものから喜びを引き出す代わりに、他人が持っているものから苦しみを引き出している。もしも、この情念が荒れ狂うままにしたなら、あらゆる優秀なものを破滅させ、特殊技能のもっとも有益な行使も不可能にしてしまう。

 優れたものを低く評価するのはやめましょう。自分の視点から神の視点に移しましょう。尊敬し尊重しましょう。そのことによって失う物などありません。そして、私たちにとって望ましい神は、敗北や無為、弱いもの、成果が上がらないものに寛容で大切にしてくれる神です。

 労働者が歩いて会社へ行かなければならないのに、医者は車に乗って往診に行くのか。ほかの者が悪天候の中で働かなくてはいけないのに、科学研究者は暖かい部屋で時を過ごすのか。非常に恵まれた才能の持ち主は、なんだって、我が家の雑用をしなくてもいいのか。人間には、これを埋め合わせる情念として、賛美の念がある。人間の幸福を増やしたいと思う人はだれでも、賛美の念を増やし、ねたみを減らしたいと願わなければならない。

 けち臭いことを言うのはやめましょう。ただし、恵まれた人には万人に有益ないい仕事をしてもらいましょう。

 ねたみの治療薬として、幸福がある。ただし、ねたみ自体が幸福の障害になっている。子供の頃の不幸、兄弟よりかわいがられないとか、他の家の子供ほど、親によくしてもらえないのに気が付くなどから、ねたみの習慣を身につけてしまう。

 自分のねたみ深い感情の原因を自覚しただけでも、そういう感情を治す方向に一歩進んだことになる。人と比較して考える習慣は致命的だ。人が持っている物と比較するのはばかげている。賢い人の場合、ほかの人がほかのものをもっているからといって、自分の持っているものが楽しいものでなくなるようなことはない。

 ガンジーやマザーテレサは、私有財産を持っていません。名誉も賞賛もいらなかったはずですが、どうしてもついて回りました。ただ、他からの名声は仕事をしやすくさせてくれたでしょう。

 私が何不自由しないだけの給料をもらっているとしよう。私は満足するべきだが、どうみても私より優秀でない人が2倍の給料をもらっていることを耳にする。私がねたみ深い人間ならば、自分の持っているものから得られる満足は、たちまち色あせてしまう。そして私は不公平感にさいなまれる。こういう事態に対処するには、無益なことは考えない習慣を身につけることである。私の2倍の給料をもらっている人は、疑いもなく、今度は誰かほかの人が自分の2倍の給料をもらっているという考えにさいなまれる。あなたがナポレオンをうらやむかもしれないが、ナポレオンはカエサルをねたみ、カエサルはアレクサンダーをねたみ、アレクサンダーはたぶん実在しなかったヘラクレスをねたんだことだろう。

 手に入る楽しみをエンジョイし、しなければならない仕事をし、自分より幸運だと思っている人たちとの比較をやめるなら、あなたは、ねたみから逃れることができる

 これが最大の勝利でしょう。でも、どうしたらできるでしょうか。

 謙遜な人たちは、ふだん付き合っている人たちに及ばないと思い込んでいる。だから、ねたみを持ちやすいし、ねたみによって不幸になり、悪意を持つようになりやすい。男の子が自分はすてきなやつなんだと考えるように育てることにはメリットがあると思っている。どのクジャクも自分の尻尾が世界中で一番立派だと思い込んでいる。その結果、クジャクは争いを好まない。

 例えば米国だと、「お前はグレート」だとか言って子供を育てることも多いようです。

 現代は平等主義的な教養を掲げているので、ねたみの範囲が大きくなっている。ねたみが公平をもたらす主な動機になっているが、ねたみの結果としての公平は、最悪の種類のものになるおそれがある。公平さと言っても、不運な人たちの快楽を増すよりも、幸運な人たちの快楽を減らすことを旨とするのだ。ねたみのような悪しきものから良い結果が生まれることはない。社会主義を大幅に増やしたいと思う人々は、ねたみ以外の力がその改革をもたらすのに貢献するように希望しなければならない。

 社会主義、民主主義、平等主義の強い主張の背景に、個人的なねたみの解決という意図が隠れているとしたら、何たることでしょう。

 ねたみを減らす方法で大切なのは、本能を満足させるような生活を確保することだ。もっぱら仕事上のものと思われるねたみは、実は大部分、性的な原因がある。よい身なりをしたすべての女性をねたみの目でみる女たちは、本能生活において幸福でないとみてまちがいがない。

 昔は人々がねたんだのは、隣人のみであった。その他の人々のことはほとんど知らなかったからだ。現在では、教育とジャーナリズムを通して、人々は直接には誰一人として知っている人のいないさまざまな階級の人たちについても抽象的には多くのことを知っている。現代社会が作り上げた人間の心情は、友情よりも憎しみに傾きやすい、ということである。そして、人間の心情が憎しみに傾くのは、不満を感じているからであり、・・・人間が享受すべく自然が差し出していう良きものを、私たち自身でなく、たぶん、他の人たちが独り占めしてしまったと感じているからである。

 今では、SNSで、ますます、ねたみの心情は刺激されるかもしれません。いらない比較、敵意、攻撃、破戒、・・・。

 ねたみは悪いもので、もたらす結果はおぞましいものだとしても、完全に悪魔のものだとはいえない。ねたみはある意味では、英雄的な苦しみの表れである。すなわち、あるいはよりよい休息の場所へ、あるいはただ死と破滅へと暗い夜道をやみくもに歩いていく人間の苦しみである。この絶望から抜け出るためには、心情を拡大しなければならない。自己を超越することを学び、自己を超越することで、宇宙の自由を獲得することを学ばなければならない。

 さて問題は,ほとんどの人が陰性感情を持つ「ねたみ」が何故あるのかです。世の中にあるということは,何らかの存在理由があるはずです。それは,何でしょうか? 人間は,生存競争の中で,他者より優位な位置をつかみ取らなければならないと考えます。理性より感情は敏感に危険を察知するのかもしれません。スポーツの世界でも笑いの世界でも。実際にねたみから,例えば同僚や部下を放逐したという史実には枚挙にいとまがありません。ねたみというのは,よいイメージではありませんので,ひそかに,表向きの理由は代えられる場合も多い事でしょう。
 完全に負ける前に,ねたみの段階で対処し,処理していればうまくいったのかもしれません。こうみると,ねたみは最初に感知する危険信号なのかもしれません。
 自分の属する世界に支配者がいて,その支配者に寵愛さえなければ生き残れないという時,より寵愛されそうなライバルに早く気づいて,つぶさなければならなかったということかもしれません。大奥なんて実に大変そうです。実際にはそんな必要が無くても過剰になってしまうところがあるのかもしれません。比較,競争,必要以上にとらわれたくはありません。勝つことに意義があるのかもしれませんが,それ以上にねたみを克服することの方が価値がある気がします。
 また,ねたみには,ある種の魅力がある気がします。敗北感の代償,代替的方法でもある気がします。相手を自分の中で貶め,自分を保つ方法でもあります。酸っぱい葡萄のような。

「ねたみ」が起こした事件 ナンシー・ケリガン襲撃事件

 20歳のトーニャ・ハーディングは,1991年の全米選手権でトリプルアクセルを成功させ初優勝を果たし、世界選手権への切符を手に入れました。当時女子選手でトリプルアクセルの成功者は、伊藤みどりに次ぎ史上2人目だったそうです。初出場となった1991年世界選手権(ミュンヘン)では、クリスティー・ヤマグチに次ぐ2位となり、3位にはナンシー・ケリガンが入りました。この時の4位が伊藤みどりです。ヤマグチは,父方祖父が佐賀県出身の移民。母親の曽祖母が和歌山県出身の移民。父は歯科医。

ハーディング ヤマグチ ケリガン 
1991世界選手権

 1992年のアルベールビルオリンピック(フランス)で,クリスティー・ヤマグチが優勝。本命伊藤みどりが銀メダルナンシー・ケリガンが銅メダル,そして,トーニャ・ハーディングが残念ながら第4位。世界選手権のようにはいきませんでした。

 ここで問題なのは、ケリガンがいくつかの大企業のコマーシャルに出演するなど人気を博したのに対して、ハーディングは、ケリガンほどもてはされなかったようです。

 「彼女は女王のように扱われていたわ」。後にハーディングはこう語ったといいます。そういうこともあるさ、くらいに考えられれば良かったのでしょうが、おそらくハーディングには受け入れられなかったのでしょう。運動能力のハーディング、優美なイメージのケリガン。

ケリガン

 ここで、もう一つの問題が起こります。それまで、夏季と冬季のオリンピックが同年に行われていたのですが、それを交互にしようということで、アルベールビルからわずか2年後にリレハンメルオリンピックが開かれることになりました。そうなると、だいたい同じようなメンバーです。

 すでに、クリスティー・ヤマグチは引退しており、伊藤みどりも1992年4月に引退。ハーディングは、あとはケリガンさえいなければ私が女王だと思ったかもしれません。

 1994年1月6日、リレハンメルオリンピックの選考会となるデトロイトの全米選手権の会場で、練習を終えたナンシー・ケリガンが何者かに襲われる事件が発生しました。「ナンシー・ケリガン襲撃事件」です。ケリガンは警棒で右を殴打され怪我を負い全米選手権を欠場。そして,ハーディングはこの大会で優勝を果たしました。

 ジャーナリストのアン・シャッツに手紙が送られてきました。それはハーディングのボディガードの娘からでした。ケリガンを襲撃した男は、金で雇われた男であり、その依頼をしたのは、ハーディングの元夫のギルーリーとハーディングのボディガードのエッカートでした。ギルーリーは、ハーディングがケリガンの練習場をアイスアリーナに電話をして聞き出したのだと証言し、証拠の練習場の名前が書かれたメモを提出しました。筆跡はハーディングとギルーリーのものでした。

 アメリカオリンピック委員会は、ハーディングの選手活動を停止させることを決断。しかし、ハーディングは、2000万ドルの損害賠償を求める訴訟を起こしました。結局、委員会はハーディングの主張を受け入れ、不思議なことに彼女はリレハンメルオリンピックに参加できることになりました。

 怪我をしたケリガンですが、驚異的に回復し、何と特例でオリンピック代表に2月に選考されました。全米選手権を欠場に追い込まれたケリガンの代わりに全米選手権2位のミシェル・クワン(1998年長野でリピンスキーに次いで銀)が代表に一時選ばれましたが、特例でケリガンがオリンピック出場を認められてクワンは補欠になりました。襲撃されてから1ヵ月後のリレハンメルオリンピックケリガンは銀メダルを獲得しました。

 同オリンピックでは、ウクライナのオクサナ・バイウルが金メダル。そして、ケリガンが銀メダル。陳露が銅メダル。スルヤ・ボナリーが4位。佐藤有香が5位、タニア・シェフチェンコ6位、そして、カタリナ・ヴィット7位、そして、ハーディングは,トリプルアクセルに失敗し、その直後に突然泣き出して演技を中断するなどで8位入賞に終わった。

 事件から半年後、米国フィギュアスケート協会は、ハーディングが事件に関わっていたことを理由に、1994年の全米選手権におけるハーディングの金メダル剝奪と協会からの追放を決定。

 ねたみから始まったハーディングの愚行は、何の効果もなかったばかりか、過去の栄光や名誉を失うことになりました。

親鸞の場合

 ずいぶん、飛躍するかもしれませんが、親鸞が「ねたみ」の克服について、どう考えていたかをお示しします。歎異抄(弟子の唯円が親鸞の言葉を記録したもの)の中で、最後の「後序」にある言葉を取り上げます。

聖人のつねのおほせには、弥陀(みだ)の五劫(ごこう)思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」。

訳(梅原猛):親鸞聖人の常日頃からおっしゃられるには、「阿弥陀さまが五劫というたいへん長い間一生懸命に思索をして考え出された本願をよくよく考えてみれば、ただ、親鸞一人のためであった」。

 ここに、ねたみや嫉妬を克服する方法が書かれていると思います。ねたみというのは、簡単にまとめると、神が自分よりあの人に多く恵んだという疑いを持つことでしょう。

 だから、親鸞がねたみから脱却するためには、阿弥陀様が親鸞だけのために身を削って修行をしたということでなくてはならなかったのだと思います。それが、親鸞の絶対安心のためには必要なことなのです。ただ、阿弥陀様は、誰にとっても阿弥陀様なわけですから、どうしても矛盾が生じます。矛盾が生じますが、それでも「親鸞だけに」でなければならないわけです。比較や競争から抜けられないわけです。いやあこれはたいへんなことです。どう考えれば、ねたみを克服できるか、ラッセルは明確にしていないようですが、親鸞は一つの方法を示しています。驚くべきことです。これをもっと矛盾なく解決するにはどうしたらよいでしょうか。非常に興味深いことです。