哲学者と統合失調症患者の共通点

 哲学者のヴィトゲンシュタインは、統合失調症に近い精神状態をしばしば体験したかもしれませんし、物理学者のニュートン、詩人ヘルダーリンなどもそのように言われています。別の哲学者バートランド・ラッセルの生涯を描いた漫画「ロジコミックス」には、哲学者や論理学者やその周辺には、統合失調症者が明らかに多いと書かれています。現に、ラッセルの子供を含めた近縁には、少なくとも数人の統合失調症患者がいます。

 それでは、哲学者と統合失調症患者にはどのような共通点があるのでしょうか? 生物学的に見れば、何らかの共通する遺伝子の発現と言うことになるのでしょう。でも、ここでは、精神病理学的に検討します。

まず最初に、精神医学者のブランケンブルグが書いた「自明性の喪失」(1971)をみてみましょう。

 20歳の店員アンネ・ラウは、市販の睡眠薬を70錠飲んで、1964年10月14日に、ドイツのブランケンブルグの働く病院に入院しました。この日、日本では、ちょうど東京オリンピックが開催されていました。

 彼女は、おとなしくて文句ひとつ言わないいい子だったということです。彼女は18歳で会社に就職しました。彼女は、自分がまだほんの子供で、いろいろな面で人に遅れていると悩んでいました。一生懸命、一人前にふるまってみるのだが、どうしてもうまくいかず、彼女を臆病にしてしまいました。

 帰宅するたびに、たくさんの疑問や手に余る難問があると家族に話しましたが、それがどういうことなのか誰もわからなかりませんでした。自分は人間としてだめだとか、立場がハッキリしていない、しっかりした人間でないから今の仕事は無理だといって悩みます。結局、仕事は止め、再就職の前日に自殺企図をしました。

 彼女は、当たり前ということがわからなくなりました。人はどうして成長するのかという疑問が頭から離れず、ありふれた言葉の意味や日常生活の当たり前のことがどうしたらわかるのかという疑問でした。「私に欠けているのは、きっと自然な自明さということなのでしょう」。

 人間は、普通、日常生活において、自明なことは考えずに生活ができます。だから、具体的な問題に取り組み、現実的に生きています。ところが、アンネ・ラウのような統合失調症患者さんの一部には、自明であるはずの、自分が立っているところの基盤が、ぐずぐずになり、生きるために、根本的なところを再構築しなければならなくなります。それも頭の中で再構築しなければなりません。現実的、具体的な生活や人間関係にはまるで対応できません。

 一般人は、何でリンゴが木から落ちるかなどと考えません。そんな根本的かつ抽象的なことを別に考えなくても生きていけます。人間は、意識を現実的、具体的な方向に向けていかなければ、生きるのが難しくなってしまいます。リンゴがなぜ木から落ちるかは、神の領域のことであり、多大な時間とエネルギーを用いても、普通は何も得られないからです。物理学者であるニュートンは、でもそれが気になったのです。普通人が考えない、自明なことについて考えたのです。

 また、一般人は、なぜ人は生きるのかなどと考えません。考えるのは、哲学者と統合失調症患者、うつ病患者かもしれません。そんなことに蓋をして、自分の欲求に従って生きた方が、上手く行くように思います。

 普通は、タッチしてはいけない自明の領域、ここに取り組まなければいかないのが、哲学者や天才、そして統合失調症患者なのかもしれません。(2024年2月)