妙好人流の生き方は現代に通用するか
妙好人(みょうこうにん)とは、広辞苑では、「行状の立派な念仏者。特に浄土真宗で篤信な信者をいう」となっています。その語源は、中国の浄土教の善導(613-681)が、『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』(観無量寿経の注釈書)に、よく念仏する立派な念仏者を妙好人というと書いたのが始まりのようです。妙好人は、仏教を自らの宗教とする聖人(せいじん)に近い方々といってもいいかもしれません。
ここで妙好人を取り上げる理由は、妙好人は他者にとってもありがたい人ですが、その人自身の本当の幸福ということを考えるときにやはり理想的な生き方なのではないかと思います。この意味で精神科医として関心があります。稀有な人たちの生き方、考え方を学びお伝えできたらと思います。また、現代に通用するかも考えてみたいところです。
善導は法然、親鸞に強く影響を与えていることは、親鸞の弟子の唯円が書いたとされる歎異抄(たんにしょう)の中に善導のことが出ており、親鸞が取り上げていますので明らかです。親鸞が生まれたのは 1173年ですから、500年後の人物に取り上げられるというのは善導は本当にすごい影響力を持っていたわけです。「孝」というのは儒教の考えだと思いますが、同じようなことがこの浄土教の系譜の中にもみられます。
宮沢賢治は、宗教とのかかわりは多かったらしく、最終的には日蓮宗系の、それも田中智学の国柱会に傾倒していったようですが、賢治の父は熱心な浄土真宗の信者だったらしいです。浄土真宗は 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)で、日蓮宗は、南無妙法蓮華経(なむみょうほうげんげきょう)です。
賢治の「雨ニモ負ケズ」は、賢治の死後に発見された手帳にかかれた詩です。「雨ニモ負ケズ」に描かれた人間像は、私には妙好人のようにみえます。知らず知らず、浄土真宗の父の影響を受けていたのでしょうか、そこに結局回帰していったのでしょうか。彼は妙好人のような人格像を最後に目標としたのかもしれません。彼はもちろん妙好人のことを知っていたと思われます。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋(イカ)ラズ イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ
ここには、妙好人にみられる特性が多くの個所に表れています。彼の『農民芸術概論綱要』に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉があります。
農民芸術概論綱要の序論(1926年)
……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……
おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
何か切羽詰まったものを感じます。賢治はここまで考えなくてはならなかったのだと思います。道を求めなければならなかったのです。これは、うつ病になった偉人たちと似ています。道を求めずにはいられないということです。賢治の精神医学的な分析はたくさんあると思いますし、不正確なことをお話ししてしてはいけませんのでここまでにしておきます。
すっかり賢治のことになってしまってすみません。妙好人と賢治との間の共通性をみつけたものですから、ついつい、脱線してしまいました。結局、賢治はどう生きるべきかということを追求していくと、妙好人のように生きることが理想だということになったのかもしれません。その中で本当に安らげると考えたのかもしれません。
妙好人を述べる場合に、善導、法然、親鸞、そして蓮如の浄土宗、浄土真宗について述べなければなりませんが、まずは、妙好人というのはどういう人たちか探ってみることにします。
ウィキペディアでは、主な妙好人として、以下の名前が挙げられています。
- 赤尾の道宗(?-1516年)
- 因幡の源左(足利喜三郎、1842年-1930年)
- 石見の才市(浅原才市、1851年-1932年)
- 有福の善太郎(1782年-1856年)
- 讃岐の庄松(1799年-1871年)
- 六連島のお軽(1801年-1857年)
お一人ずつ紹介いたしましょう。
赤尾の道宗(あかおのどうしゅう)
室町時代、道宗が生まれた赤尾谷は、富山県(越中)の南西端に位置する五箇山(ごかやま)地方にあり、山々に囲まれる豪雪地帯です。庄川(しょうがわ)(飛騨から日本海へ流れる一級河川)沿いの谷間に集落が点在し、相倉(アイノクラ)合掌造り集落と菅沼合掌造り集落が1995年(平成7年)、岐阜県白川郷とともに世界遺産に登録されました。
五箇山の地名が初めて見られるのは室町時代、1513年(永正10年) 本願寺第9世実如の書き物に始まるそうです。名前の起こりは5つの谷間(赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷)から構成された集落群の総称と云われています。
※2004年(平成16年)11月1日、町村の合併により、南砺市(なんとし)となったそうです。
妙好人列伝によると、蓮如上人の俗弟子であり、俗名は彌七(やしち)といい、法名が道宗というとのことです。道宗は、蓮如上人と面会もしていたし、道宗の名前を口にすることも多く、他の妙好人たちが蓮如より後の時代であるのに対し、道宗は同時代の妙好人ということで、特異であるのかもしれません。蓮如は妙好人の誕生にきわめて大きな役割を果たしており、彼の「御文章」、「蓮如上人御一代聞書」につきましても後日、検討してまいります。
親鸞の法然に対する関係は歎異抄の中の、「かりに法然上人にだまされて、念仏して地獄に落ちたとしても、決して後悔することはない」という言葉に示されています。それだけ深く法然に帰依しています。さらに、親鸞は「阿弥陀仏のお誓いが真実であるならば、釈尊のみ教えに嘘偽りがあるはずがない。釈尊のみ教えが真実ならば、善導の注釈が嘘偽りであるはずがない。善導の注釈が真実なら、法然の仰せがどうしていつわりであろうか。法然の仰せが真実なら、親鸞の申す趣意もまたいつわりではないのでないか」と真理のつながりを大切にしています。代々引き継いでいくという姿勢は、禅の世界でも同じです。それと同じように、道宗は次のように言っています。
「善知識の仰せであっても、そのようなことはできないなどと思うのは、たいそう浅ましいことである。できそうでないことも仰せならばできるものと思わなければならない。この凡夫の身でさえ仏に成らせていただくからには、できないと思うことはないのである。だから道宗は、『琵琶湖を一人で埋めよ』と蓮如から仰せられても『畏まりました』と申すでありましょう。仰せであれば成らぬことはないのである」(蓮如上人御一代記聞書)何かその信仰の深さはキリスト教にも似たようなフレーズがありますね。
弟子たちが悪い霊を追い出せなかった理由を聞くと、イエスは言われた。「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば移るであろう。このように、あなたがたにできないことはないであろう」(新約聖書マタイ17:20)
このように、師に強く従う態度を道宗も示したと言います。儒教で言えば恩とか孝とか報とかでしょうか。少なくとも年に数回は蓮如のいる本願寺に道宗は出向いています。蓮如はこのような遠方の上洛は危険でもあるので控えろと言いますが、「畏まりました」というものの半年後には上洛してしまったそうです。道宗ほど上人を純真無垢のこころで慕った人はいないであろうといわれます。蓮如と会うことが深い喜びを与えたようです。信心、熱意、帰依という意味で道宗は優れた人でありました。
道宗は、蓮如が亡くなって二年後に道宗二十一か条を書いています。これは、道宗が自分で守っていく掟のようなもの、自警の決まりのようなものです。いくつかの条文を挙げてみます。
第三条
心を引き立てて、積極的に努力する気持ちがなくなって、怠け心にまかせそうになったら、その心中を引き破っていかなければならない。
第四条
自分の利益や名声のために仏法を利用しようとする心が起きたら浅ましく恥ずかしいことであり、すぐに改めるべきである。
第五条
利己的な欲望のために、他人に悪いことをしてはならない。
第七条
仏法は深く信仰し、わが身の方はどこまでもへりくだって、慎まなければならない。
第十六条
自分を憎んでいる人を、こちらから憎み倒そうとするような心は持ってはいけない。(これは他の聖人にもみられる逆説的な愛のカタチです)
全二十一条のうち、2、4、8、10、11、21の条文で「浅ましい」という言葉が用いられています。こういう言葉で自分自身を戒め、おごり高ぶらないようにしています。思い上がること、高慢になってしまうことを恐れているように思います。精神病理学者のビンスワンガーは、精神分裂病(当時のママ)の三態として、「思い上がり、ひねくれ、わざとらしさ」を挙げています。これらは、だれでも少しは持っているものでもあります。わざとらしさなどは、例えば照れ隠しをするときに多くの人に無意識に出てしまったりします。だから、凡夫だということなのでしょう。これらのどれも相手があってのことであり、相手を不愉快にしがちな行為でもあります。道宗はこのうち、少なくとも思い上がりだけには気を付けていたということです。実に面白いです。
道宗の生活史について述べましょう。生まれは1462年頃です。道宗は4歳の時に母親と死別、13歳の時に父親と死別したようです。叔父に育てられたそうですが諸説あるようです。道宗は赤尾谷の一番奥に、西赤尾に行徳寺(浄土真宗大谷派)を1513年に開いたとされます。この寺は富山県の指定文化財になっています。東赤尾地区にも道宗は道善寺を作っています。他の妙好人の多くが農民であるのに対して道宗は僧であることが珍しいといえます。道宗が蓮如からもらった御文章が現在も道善寺にあるというから驚きです。そのほかに、道宗が蓮如のいる本山の方を向いて座り、阿弥陀如来を礼拝した座石である「道宗礼拝石」というのもあるそうです。行徳寺に隣接する遺徳館(いとくかん)には、道宗21か条や蓮如の御文章などが展示されているといいますから、ぜひ訪ねてみたいものです。
道宗は、上述の通り早くに両親を失っており、両親への思慕が強く、筑紫の羅漢寺の五百羅漢の中で微笑みかけてくれるのが父、母だということを聞いて、道宗は筑紫への旅を始めます。しかし、途中の福井県でみた夢の中に僧が現れ、「そのような愚かなことはやめよ。それよりは本願寺の蓮如を訪ねよ。教えを聞けば、本当の親に会うことができる」と言います。道宗は、本当の親に会えるとはどういうことかと思い、本願寺に向かったとされています。
南砺市には本願寺の親鸞から五代目に当たる綽如(しゃくにょ)上人が開祖した瑞泉寺という大きな寺があり、そこにも道宗は参詣していました。第八代の蓮如は、瑞泉寺にたびたび来ることがあり、そのたびに道宗は、赤尾谷から20kmの尾根道を時には深い雪をかき分けてきたそうです。それが道宗路というそうで今も残っているそうです。
本当の親、親とは何だろうということは、因幡の源左も長期にわたり追及してきました。同じです。そして、本当の親というものがわかり、彼らは絶対の安心を得られたわけです。
ここで、道宗の生き方の特徴をまとめてみましょう。
強固な信仰心をもっている。
師を信頼し尊敬し、命を賭して行動する。
親を慕う感受性が強く情熱がある。
慎み深くへりくだる。
自戒の念が強い。
逆説的な愛を教える。
これらは他の妙好人にもみられるのか、また、現代人の行動指針として有効なのかなど検証していきたいと思います。
文献
1.中茂保則:赤尾の道宗 自照社出版 2012
2.藤秀翠:新撰妙好人列伝 法蔵館 1984