偉人のうつ病 トルストイ その2 ロマン・ロランへの手紙
1887年4月 パリの大学生であった21歳のロマン・ロランは、トルストイに手紙を送っています。人生の意義というものを教えてほしいなどの内容だったそうです。それに対して、半年後の10月に59歳のトルストイは返信しています。その手紙には当時のトルストイの思想が率直に表現されています。日本語に訳したものは、文庫の13ページにも及んでいますので、その一部だけご紹介します。「岩波文庫 トルストイの生涯 ロマン・ロラン」のからの引用です。
まず、真の幸福への根本的な条件としてトルストイが肉体労働をすすめているのは何故かという ロランの質問に対する回答から始まります。
以下、白背景はトルストイ、緑と黄色は私。
「現代世界の欠陥として、無知で不幸な貧民階級の労働を無償で利用しているということがあげられます。この社会でキリスト教的、哲学的、あるいは人道主義的な原則を説くまじめな人々は、その矛盾からできるだけ逃れなければなりません。まず、自分の身のまわりの世話は自分でやらなくてはいけないし、他人に尿瓶(しびん)を空けさせるということではいけないと思います。最も明らかな道徳上の公式は、できるだけ他人に奉仕されないようにし、できるだけ他人に奉仕することです。できるだけ他人に少なく要求し、できるだけ他人に多く与えることです」。
このような構造は今でも至る所にみられるような気がします。できるだけ効率的に行動し、得をし、一歩抜き出る、抜け目のないやり方で先んじる方が良いというような文化があります。トルストイもガンジーもマザー・テレサもやろうと思えば極めて上手にできたでしょう。しかし、そういうことを彼らは放棄したのです。
「ある行為をして自分が他人に役立っていると確信できる時に、人は初めて幸福を感じます。たとえば、疲れた人に代わって荷物を運ぶとか、病気の百姓に代わって畑を耕すとか、傷の手当てをするなどです」。
妙好人因幡の源左は、よく人の荷物を担いで、その間に歩きながら法話をしています。他人の田んぼの畔が壊れていれば何も言わずに補修しておきます。二宮金次郎も夜中に草鞋を編んで翌日に人に与えることや他人の田んぼを耕すことなどを挙げています。彼の用いた推譲という言葉も似た意味があるでしょう。
「肉体労働は、万人にとって義務でもあり幸福でもあるのです。精神活動はその天職を持つ人にとってのみ、義務や幸福となるところの特別の労働なのです。天職は、学者や芸術家がその天職を遂行するために自分の平安や幸福を犠牲にすることによってのみ、認められ証拠立てられます。肉体的労働で生活を支えながらも、休息と睡眠の時間を割きながら、精神の世界で考えたり創り出したりするという義務を果たしている人は、自分の天職を証拠立てているのです」。
「自分の陥っている迷信から抜け出ることが必要です。どんなささいなことでも、一定の信条にとらわれている人と議論することは、まったく無意味なことです。人生の真理を知るには、哲学とか深い科学とかいう肯定的なものは何もいらないのであり、ただ迷信を持たないという否定的な能力さえあればいいのです。ただ、子供のように、デカルトのようになればいいのです」。
人はどうしても偏見を持ちがちです。偏見から自由になるのは難しいと感じます。また、否定的な能力は、難解な哲学と異なり多くの人が持つことができるものです。一番大切なことは、平等に与えられている可能性があります。
「われわれは幸福を求めています。そしてひそかに『人がその人自身よりこの自分の方をよけいに愛してくれた場合にしか、自分の幸福は得られないだろう』と思っています。そんなことはありえないことです。そして、われわれがいろいろな活動をするのも、富や名誉や権力を求めるのも、みな他の人よりも自分の方をよけいに愛してもらおうとすることに過ぎないのです。それが見せかけであって現実でないことを時折忘れます。すべての生物はわれわれより自分自身のほうをよけいに愛しているし、幸福はあり得ないものなのです。世の中にはこの難問を解決できないから人世を欺瞞(ぎまん)だと思い込んで悩んでいる人がいてその数は増加しています」。
競争するのも、人に勝ろうとするのも、結局はそういうことなのでしょうか。一見美しい動機のもとに行動しているように見えて隠れた俗物的な動機に支配されていることも多いでしょう。
清沢満之(きよさわまんし、明治時代の浄土真宗の僧侶、哲学者)の言葉を引用しましょう。「名誉の競争があり、財産の競争があり、実力の競争があり、門閥の競争があり、他人の歓心を買おうとする競争があり、人の機嫌を損じないようにする競争があり、上を追い抜こうとする競争がある。およそ社会活動の現象は、一つとしてなんらかの競争のことではないものはない。・・・・われわれは日夜に同胞に対する競争に駆られて苦悶を脱却できないのである。さらに痛切な事例について言おうか。われわれが君主に忠順であることができないのは、一種の競争心をその根底としているのである。われわれが父母に対して孝順であることができないのは、一種の競争心をその根底としているのである。われわれが朋友に対して柔順であることができないのは、一種の競争心をその根底としているからである。われわれが修身道徳といの大義と呼ぶ事柄において、実践躬行に至れない理由は、多くの競争心がわれわれの心中に潜在して、常に柔順な本心を壊乱するためにほかならない」。(競争と精神主義。明治34年 精神界)
「しかし、この問題の解決はすこぶる簡単であって、しかもおのずから決まっているのです。この世の中の人が自分より他人の方を愛するという法則がない限り、私は幸福にはなりません。わたしは、自分自身より他人の方を余計に愛さなければならないのです。人がそういうふうに考えさえすれば、人生が以前とはがらりと変わったものになってくるのです」。
これは、実現可能なのでしょうか?相当大変な道のりであるように凡人には思えます。
「人の知る限りの最大の幸福、最も幸福な状態とは、自己放棄と愛との状態です。わたしはただわたしのものの見方をお知らせしようとしただけなのです」。
レフ・トルストイ
最近、ウーバーイーツがありますね。あれは、どうなんでしょう。人に自分の食べるものを運んできてもらうというのは。何か人を使っているようで嫌な感じを受けてしまいます。申し訳ないような、悪いことをしているような気がします。それを人に話してみたら、そういう仕事のおかげで、生活していける、大学に行ける人がいるのだから良いことだというのです。いや、確かにそれはそうです。双方にいい事なのだから素晴らしい事業だと言えばその通りなんですが。それでも若干の抵抗を感じてしまいます。
もともとのウーバーは車。自分の車に知らない人を乗せる仕事ですね。そしてすぐ評価されて星になります。それはそういう契約でやっているのですし、いやいややっているわけでなく自由なのですが。
もう一つ。アマゾンのテレビコマーシャルで、年配の人がアマゾンの倉庫で働いており、働けることが喜びだというようなことを言っています。それもそうなんでしょう。生きがいを与えているのでしょう。ですが、わざわざそんなコマーシャルを放映するということがちょっと気になります。アマゾンは正当だということを言っているかのようにもみえます。
グーグルはどうでしょう。GAFAは、グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルでしたっけ。
グーグル、フェイスブックは名誉欲、アマゾンは物欲、アップルは効率欲?、ウーバーイーツは美食欲と結びついています。つまり、これらは人間の欲望をもとにした商売です。いや、商売というのはみなそうかもしれませんが、必要なものでなく、必要なもの以上の欲求と関連するような気がします。私が、ひねくれているのでしょうか?それとも偽善者なのでしょうか。現実にはグーグル、アマゾン、アップルという5社のうち3社を私は利用しており、実際に恩恵を受け、知らないうちにそれらの会社にお金を払っています。「もっともっと」という欲求に屈している気がします。そして、いらないものを買っているのかもしれません。それが正当なように思い込まされています。放棄することはできませんが、どこか微妙な関係だという気がします。今話題のオーナー商法もそうですね。欲望と関係した商売。しかし、労働に比して多く儲ける時、労働に比して少ない収入に甘んじなければいけない人が多くいるわけです。
企業は、人間の欲を食って巨大化する、欲あるところに巨大企業あり。そんな気がします。もっと強く、もっと速く、もっと美しく、もっと便利に、もっともっと。そういう欲望を利用している事業があります。というかそれが普通なんでしょうか。