ラッセルの幸福論で幸福になる 3 「競争」

第3章 競争

 アメリカ人やイギリス人のビジネスマンに生活の邪魔をするのは何かと尋ねたとしたら、「生存競争だ」と言うだろうとラッセルは語ります。しかし、昔と違って、そういうビジネスマンは仕事に失敗したところで餓死することもなく、ラッセルは本当の意味での生存競争ではないと言います。

 では、何か。ラッセルは、それは成功のための競争だと言います。隣近所の人を追い越すことができないのではないかと悩むのだといいます。典型的な不幸なビジネスマンの場合、朝早くから会社で仕事を始め、夜は夜で、晩餐の席で、疲れを知らないご婦人方に同席して楽しんでいるふりをしなくてはならない。やっと睡眠の時間だけ緊張がほぐれる。しだいにビジネス以外の生活は潤いを失う。家族旅行で母と娘たちは有頂天になって彼を取り囲み、彼の注意を惹こうとするが、彼はすっかりくたびれてついていけず、それに対して、彼女たちは不満をかこつ。彼が自分たちの強欲の犠牲者だということは彼女たちの頭にはほとんど浮かんでこない

なにか?湾岸地域のビル

 ラッセルは続けて語ります。
 成功を追求することは男の義務であり、そうでない男はつまらない男だと信じている限り、彼の生活はあまりにも全力投球型で、あまりにも不安に満ちているので幸福になれない。

 男の競争とは、見せびらかし、これまで対等であった人たちを追い越すことである。儲けた金が一般に頭の良さの尺度だとされる。また、どんなに金持ちでも破産したらどうなるかという不安からのがれられない。どんなに金持ちでも救貧院で死ぬのでないかと恐れている人もいる。

 もっとも成功によって、生活がエンジョイしやすくなることは私も認めるとラッセルは言う。金というものが、ある一点までは幸福を増すうえで役立つが、その一点を超えると幸福を増すとは思えない。私が言いたいのは、成功は幸福の一つの要素でしかないので、成功するために他の要素がすべて犠牲にされたとすれば、あまりにも高い代価を払ったことになるということだ。

 ある一定以上の収入を得ても、それからは幸福度は上がらないというのは、ずっと後になってから統計学的に示された。ラッセルは早くから認識していたようである。

 医者がほんとうに医学の事を知っているか、法律家がどれだけ法律の事を知っているかの判断基準はなく、生活水準から推定される年収によるほうがやさしい。アメリカの少年たちは小さいころから経済的な成功のみが重要だと感じており、経済的な価値のない教育に煩わせられることを望まない。

自分の名声を高めるために美術館を開こうとする人がいるとしよう。彼は絵のことはわからない。他の金持ちがその絵を所有するのを邪魔してやったという喜びしかない。

競争的な精神の習慣は、本来競争のないところまで入り込む。例えば読書についていうと2つの動機がある。一つは楽しむためであり、もう一つはそのことを自慢できることであるという。

 人生はコンテストであり、競争であり、そこでは優勝者だけが尊敬を払われることになっている。こういう考え方は、感性と知性を犠牲にして、意志のみを不当に養うという結果をもたらす。

 人生の主要目標として競争を掲げるのは、あまりに冷酷で執拗で肩ひじ張った意志を要する生き様なので、生活の基盤としてはせいぜい一二世代しか続くものではない。その期間が過ぎれば、神経衰弱や種々の逃避現象を生み出し、快楽の追求を仕事と同じくらい緊張した困難なものにするにちがいない。(なぜならリラックスすることができなくなっているからだ)そして、ついには生殖不能になって、子孫が絶えてしまうに違いない。

 これもラッセルの予測したとおりだ。現代男性の精子は減っている。

 競争の哲学によって毒されているのは、仕事だけでなく余暇もである。静かで神経の疲労を回復してくれるような余暇は退屈きわまるものだと感じられるようになる。競争は絶えず加速されるにきまっているので、薬物に頼り健康を害することになるだろう。それに対する治療法は、バランスの取れた人生の理想の中に、健全で、静かな楽しみの果たす役割を認めることである

 学業成績の競争、営業成績の競争、貢献度の競争、収入の競争、良い配偶者の競争、子供の学歴の競争、SNSの高評価の競争、「いいね!」の競争、ママ友の友達の数の競争、論文数の競争、勲章がもらえるかもらえないかの競争、役員になれるかなれないかの競争、GDPの競争、貯金の競争、どれだけクイズに正解できるかの競争・・・

 ラッセルの時代から現代まで、競争はたしかに人の日常の全てに入り込んで無用に苦しめている。競争に勝利するとは何なのか?競争は永遠に続く。いや、永遠に勝利できないと言ってもいい。そんなものにずっと縛られている。だから、競争にあまり飲み込まれないことだ。結局幸せに至れない。犠牲、努力の割に。

 この人に勝りたいという欲求はなんだ。優越感なのか? 安心するのか? 結局不安だからか?

清沢満之の考える競争

清沢満之(きよさわまんし)浄土真宗の僧侶。ラッセルより9年早く生まれ、ラッセルと同じ時代を過ごし、ずっと早く40歳で亡くなりました。1863年名古屋に生まれました。愛知県医学校に入学するが退学。15歳で東本願寺で得度。その後、留学を命じられ、東大文学部哲学科でヘーゲルやカントを学ぶ。奴隷哲学者のエピクテトス語録にも感銘を受けました。

清沢満之(1863-1903)

 清沢は多くの書き物を残していますが、38歳の時に「精神主義」を書いています。その中の一節に「競争と精神主義」があります。満之もラッセルと同じように生活のあらゆるところに「競争」が入り込んでいることを示します。「名誉の競争があり、財産の競争があり、実力の競争があり、門閥の競争があり、他人の歓心を買おうとする競争があり、他人の機嫌を損じまいとする競争があり、上をしのごうとする競争があり、下にしのがれまいとする競争がある。このように、社会的活動の現象は一つして競争でないものはない」。

 そして、彼のすすめる「精神主義」と競争とは競争が客観的対象から離れないという点において、精神主義と対立すると言います。

 「われわれに最も近い競争相手は、同胞である。われわれは昼も夜も同胞に対する競争に駆られて苦悶を脱することができない」。

 そればかりでないと満之は言います。「われわれが君主に忠順でありえないのは、その根底に、それ特有の競争心があるからだ。われわれが父母に対して孝順になりえないのは、その根底に、それ特有の競争心があるからだ。われわれが朋友に対して柔順でありえないのは、その根底に、それ特有の競争心があるからだ」。

 普通ここに競争心が入り込んでいるとは、気づきにくいものです。さすが満之です。同胞だけでなく、父母にも、師にも、部下にも、上司にも、医師にも、患者にも、その間に競争心が入り込んで悪さをしています。

 「一般にわれわれが修身道徳の大義を口で言うように実行するに至らないのは、多くの競争心がわれわれの心のうちに隠れ潜んでいて、つねに従順な本心を壊乱するからである。修身道徳の心と競争とは両立できないものである。

 われわれの競争心は、相手が目前に現れた時にこそ、もっとも強烈に感じられる。名誉の場合でも、財産の場合でも、実力の場合でも・・・競争の主要原因となるべき事件がわれわれの眼前にない間は、競争する気持ちから幾分は抜け出すことができるが、ひとたびその事件が他人の身の上に現れ出てくると、我々は直ちにこれに向かって競争する気持ちを抑えることができなくなる。他人の名誉を見るとただちにこれと競争しようとするし、他人の財産を見るとただちにこれと競争しようとするし、・・・。

ようするに、客観的対象の現実的出現は競争心を刺激して生まれさせる大きな動機なのである。

 精神主義は客観的対象の現実的出現によって動転させられないようにするものである。競争心とは両立しないものと知るべきである。精神主義は自分の内部に円満を期するものである。競争心に駆られれば駆られるほど精神主義と乖離し、精神主義が深まれば深まるほど、それだけ競争心を脱却できることを知らなければならない」。

 ラッセルも清沢も、人間の生活のほぼすべての領域に、競争が入り込んでいるという点で一致します。そして、そのために、精神的な健康をむしばんだり、苦悶したり、道徳から遠ざかります。
 では、なぜ、競争原理が入り込み、勝ち負けに敏感になるのか、比較してしまうのか? これは、負けることによって損するとか、生きていけないとか、不幸になるとか、取り返しがつかないなどと思い込んでいるのではないでしょうか? 彼よりも能力のあることを確認したい、何としても勝って、そして安心したい。
 物事を、技術を、実力を高めるのは望ましい事です。そう努力するのは素晴らしい。自分の中に眠っている才能に気づき、伸ばしていくこと、これは使命でもあります。しかし、不安や恐怖に駆られた競争になってしまうのはどうでしょう。
 いらないところに競争心が入り込んで悪さをしている、消耗させていることに気が付き、脱出することができれば、自由を得て、少しは生きやすくなるのではないでしょうか。