何でも簡単にしよう

 毎日、大量の書類を書いています。精神保健福祉法に関するもの、自立支援法に関するもの、生活保護に関する書類、院内の作業療法の指示書、訪問看護指示書(院内と院外)、各種アンケート、障害年金診断書、医師意見書、診療情報提供書、主治医意見書・・・

 このままでは、「書類書きがありますので、今日の診察はできません」などということにもなりそうです。これらが、年々増えていく。先日もいわゆる監査というものがあったが、カルテの記載が足りない、もっと書いてくださいというものです。診療が正しくなされているかは、カルテの記載に基づいて判断しなければならないからです。それに対抗するために、書類はますまっす増えます。
 役所に忠実になることで、患者さんに対する時間がなくなるし、医師のエネルギーも枯渇する。いい加減に書くと委員会で判定されて、書き直しを命じられます。

 何か問題があった時に、書類を増やして完全な形にしようとする。記載を増やして問題を解決するということです。しかし、これは危険を伴うということを考えてほしい。生産性を明らかに低下させます。それも非本質的なことで。諸外国に負けるのも当然です。全体的なことを考えず、自分の仕事をまじめに達成しようとすればするほど、どつぼにはまります。

 物事を解決するのに、単に書類を増やして解決してはならない。

 今年の精神保健福祉法の入院時に患者さんに渡す書類が、A4の表裏、びっちりになってしまいました。前までは、表だけでよかったのに。説明を増やし、漏れがないようにする。それで、完成に近づけるという考え方です。このことだけとっても医師の仕事は増えたし、患者さんも多くの文字を読まなくてはいけません。

 しかし、患者さんも入院が必要なほどなのだから、頭に入るわけもなく、集中して聞く人もいません。

 強制入院の一つである措置入院の時には、告知文書を保健所職員が読み上げます。結構長い文章です。しかし、自傷他害で警察官も同行する入院です。患者さんは聞く余裕がありません。頭に入るわけもない。読み上げる方も頭に入らないことは分かっており、ただ、法律的には告知しないわけにはいかない。その結果どうなるか。保健所職員は早口になります。伝わらないということは自覚していて、ただ業務を行えばいいということになると、それは好ましくないということになります。法律的に良くても人間的には良くないでしょう。それをわかっていて私たちは行っています。伝わるかどうかは気にしなくていい、ただ、読み上げればいいのだという考え方です。それで、やるべきことはやったということになるのです。たしかに、不穏な患者さんの前で、そんなに時間はとれません。

 「それ、入院の時に言いましたよ」と後で言うことができます。自己弁護に用いることになってしまいます。ともかく、告知したという事実が最も大切になっています。

 確かに、書いたものがなければ証拠にならない。今は、患者じゃなくて、医療者側の人権を守るために、書類が肥大化する一方です。医療者を守るために、やってくださいと言うことなのかもしれませんが、自分を必要以上に守ることも嫌ですし、その必要もないです。誤解されてもかまいません。誤解されたまま死んだソクラテスの方がいい。

 医療者が本質的なことに多くの時間とエネルギーを裂けるように、簡略化しようという考えはどこにもありません。増やしてはいけないという考えもない。医療者側もおとなしく黙っています。日本人の悪い特性かもしれません。どんどん生産性が下がります。

書類は増やすのはもうやめよう。そういう解決法ではだめだ。

  私はある委員会の委員長をしています。しかし、その委員会の書類を書くと、時々、返戻されます。委員会の委員も、役所の人も委員長にダメ出しをするというのをどう思うでしょうか。委員長がしばしば間違った書類を書くという委員会は望ましくありません。

 私はこうした間違った事態に対して、ささやかな抵抗として、書類書きを完璧にやれと言われても、なるべく時間をかけず、完成度は80%くらいで諦めて、時間とエネルギーをより本質的なことのために使いたいと思っています。委員長だから、完璧にしようなどとは思っていません。

 私もそうですが、書類を見る側になると、間違っていることを探し、多くの間違いを発見し指摘することに過剰に取り組んでしまうようになります。それに喜びを感じてしまうこともあります。まじめに取り組むほど、非本質的なことで、間違いを指摘し、修正を求めることになります。「あなた、間違ってます。私は気づきました」というわけです。そこで、求められた人は時間もエネルギーも使って修正するわけですが、問題はそこで終わりません。

 指摘された医者は、まじめな医者ほど、次は指摘されないようにもっと注意深く書こうとなるわけです。より多くの時間とエネルギーが、非本質的なことに消費されてしまう、本質的な治療という場面に精力が注げないということになってしまいます。

 だから、事務仕事の簡略化をみんなで進めよう。経済的な面も解決に向かうだろう。国際競争力も少し回復するかもしれない。

 役所も含めて。問題が生じる→書類を増やして解決しようとする→そのための役所の仕事が増える→残業が増えるまたは職員を増やす→より厳密に審査する→まじめな医者は完璧にしようとする→患者に割く時間が減る→治療がおろそかになる→書類を増やして解決しようとする、または会議を増やす→・・・・

解決はAIによるのか。いや、書類も自動で読み取って、判別してもらうのがいい。

先日、委員会で役所の方から、事務仕事が増えているので、会議に出る職員が1人増えましたと言われました。いやあ、その事態の危険性におののいてしまう。

 また、追加。フロリダに住んでいる日本人の知人と会食した。日本に帰ってくると、ゴミ出しに苦労するという。フロリダでは、資源ごみはまとめて出していいし、燃えるゴミに分類されるのも多く許容されているのでざっとでいい。分別に日本ほど苦労しない。しかも、夜間にも出していいことになっているという親切さ、大雑把さ。寛容さ。

 日本では、きちんと分別し、当日の朝に出す。以前に私がまちがってプラゴミの日に燃えるごみを出したら、中を探られて、個人が特定され、間違っていますとポストに手紙を入れられたのを書きました。

 そういう、まじめさとか、しばり、不寛容さ、そういうことに価値を感じる、それを他者にも強要することは危なくないだろうか。そういった日本人の特性が、日本人の生産性を確実に低下させていくのではないか? これは一種の自殺だ。いや、お前はもっとこのつまらないことに一生懸命になれと言えば他殺だ。日本人同士でのだ。外国人は笑ってみているだろう。

 ドイツ人も似たところがある。そのため、几帳面といううつ病の病前性格というのがあるのが、日本とドイツだけだ。でも、ドイツはうまく克服しているのかもしれない。GDPで日本を抜いた。

 もっと本質的なことを大事にしよう。そこに貴重な精力を傾けよう。

2023年11月