ラッセルの幸福論で幸福になる 1 「不幸の原因」

 幸福を推進するのは、精神科医の仕事の一つであろうと思われます。幸福とは、主観的なものであり、端から見て不幸と思われても、当人は幸福だと思っているという場合もあるし、幸福か不幸か考えている余裕もない、ただ必死だという場合もあるでしょう。

 それはともかくとして、世の中には多くの「幸福論」があります。哲学者たちの書いた幸福論をよく読めば、幸福になれるのでしょうか? はじめに、バートランド・ラッセルの幸福論を読んでみましょう。ラッセルは、1872年イギリスで生まれた。哲学者、数学者、評論家であり、ノーベル文学賞を受賞しています。祖父はイギリスの首相。

 「はしがき」で、彼は、「自分の経験と観察によって確かめられたもの(幸福論)であり、それに従って行動した時には、自分は幸福を増した。現在、不幸な人々も、周到な努力によれば幸福になりうるという信念で書いた」と言います。

第1章 何が人びとを不幸にするのか

 ラッセルは、不幸の原因について考えます。普通、ほとんどの人間は、心配事を抱えています。不安、極度の専念、競争、遊べないこと、仲間に対する無関心・・・。アルコールを求める人も多いが、しらふの時には抑圧されている罪の意識を開放することに過ぎない。さまざまな不幸の原因は、社会制度の中に、一部は個人の心理の中にあるといいます。

 私の目的は、日常的な不幸に対して、一つの治療法を提案することにある。こうした不幸は、間違った世界観、間違った道徳、間違った生活習慣によるものだ。

 ラッセルは幸福を受動的なものとして捉えず、主体的に関われるものによるとみていました。認知の誤りのようなものでしょうか。

 そこで、ラッセルは、自分のことについて語ります。5歳の時から、生きているのが苦痛で、70歳まで生きなければいけないとすれば、まだ、14分の1を耐えたに過ぎないと思った。思春期には、いつも自殺のことを考えていた

 ラッセルは、裕福な伯爵家の家庭。しかもケンブリッジ大学出と何もかも恵まえているようにみえます。しかし、元々幸せを感じていたわけではありません。環境的には何もかも恵まれていますので、環境のためではなく、彼の生来の素質から、生きていることを苦痛に感じていたと考えられます。

 ラッセルが、自殺を思いとどまったのは、「数学をもっと知りたかったから」。その後、年を取るにつれてますます生活をエンジョイしている。自分が望んでいるものが何かであるかを発見して、徐々にこれらのものを数多く獲得したことによる。それと、望んでいるもののいくつかを獲得不可能なものとして上手に捨ててしまったことによる。たとえば、何かに関する知識の獲得などだ。

 ここで問題なのは、「数学が知りたくて」死をまぬがれる人は少数だろうということです。ただ、数学ほど高尚なものでなくてもいい。芸術、スポーツ、今ならゲームとか配信なんてのもあるかもしれません。ただ、遊びの水準じゃダメなのだろう。かえって虚しさを感じてしまうと思います。彼の初期の苦悩は彼の素質によるものであり、彼を救ったのも彼の素質・才能であったのでしょうか。

昭和記念公園

 自分があわれな人間の見本のように思えた時期があったが、次第に、自分自身と自分の欠点に無関心になることを学んだ。注意を外界の事物に集中するようになった。世界の状況、知識のさまざまな分野、愛情を感じる人たちなど。

 それは意図的にではなく、自然にそうなったのでしょう。自分の中の自然をたどっていったらそうなったのだと思います。

 外界への興味は、何かの活動を促し、その興味が生き生きとしているかぎり、倦怠を予防してくれる。反対に自己に対する興味は進歩的な活動に至ることは決してない。反省日記をつけるとか。自分の長所や欠点について考えるとか。

 自己に対する興味とは何だろうか。内省か。自己憐憫。自己分析。幸せでないとすれば、自分が悪いのだ、自分のどこが悪いのだ。そこを直せば幸せになれるのではないか。原因をさぐって、そこを修正しようとする。それはだめだとラッセルは言います。「反省しなさい」はダメ。精神科の患者さんにもまったく有効でないし、犯罪者には反省させてはいけないという本もあります。

 不思議なことに森田療法も自分のことで煩悶する人が、絶対臥褥とか、作業とかによって、強制的に自己から離れることによって、外界への関心によって回復させるともいえます。「自明性の喪失」という統合失調症の精神病理について書いたブランケンブルグの症例アンナは、内省のしっぱなしです。こころの休まる時もない。機械は、故障した場合、原因を究明しそれを解決するということで再び動き出しますが、人間のこころはどうも違うようです。原因を追究しても、正しく原因を求めることができない。家庭内暴力の場合、親の育て方が悪いということになるし、統合失調症の場合、自分を苦しめる組織が悪いということになります。それでも自分が悪いというより、幸せなのかもしれませんが。

 自己に対する興味は、進歩的な活動に至ることはないといいます。日記をつける、精神分析を受ける、修行僧になるなどがあることをラッセルは挙げます。しかし、修行僧になったとしても、修道院のお決まりの仕事のために己の魂の事を忘れてしまうようになるまでは幸福にはなれないだろうといいます。

 道元も正法眼蔵の現状公案の中でこう言っています。仏道をならうといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわすするなり。自己をわするるというは、万法に証せられるなり。万法に証せらるるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり。・・・ 素晴らしい!道元。ラッセルの650年前に言っています

道元

 現代まで続く修行として、千日回峰行があります。1000日間、比叡山を毎日歩く。もっとも長くなると1日80kmという。しかも、最後に1週間の飲まず食わずだ。こんなに厳しければ、自分のことなど忘れてしまうでしょう。酒井雄哉はこれを2回やったというから驚きです。そうしたら、精神性も異次元になりました。

酒井雄哉 荻窪でラーメン屋をやっていた

 冬山登山とか、戦争とか、自分をギリギリまで追い込まなくてはいけない状況では、自分や日頃の悩みを忘れられるかもしれない。しかし、これは、できない人も多いし、犠牲も大きい。

 どっぷり自己に没頭している不幸な人々にとっては、外的な訓練こそ幸福に至る唯一の道なのだ。そして、自己没頭の代表的な3つのタイプとして、罪びと、ナルシスト、誇大妄想狂がある。

 外的な訓練とは、奇妙な言葉だが、外界への関心とか興味とかのことです。ラッセルは、これが幸福への道だと言います。ところが、統合失調症では、慢性期になると外界に対して無関心となります。内界に対する関心のみです。行動も縮減します。

 罪びとというのは、罪の意識に取りつかれた人であり、理想像が常にあるがままの自分と衝突する。幼年期に教えられたすべての禁止令を受け入れている。汚い言葉、飲酒、セックス、ずるい駆け引き・・・。恋をすれば母性的な優しさを求めるが、道徳律により、性的関係を持つ女性を尊敬することができない。これら、母性的な美徳の犠牲者たちにとっては、幼年期の信条と愛情の圧政から解放されることが幸福に至る第一歩である。

 患者さんの中には、こういった理論をそのまま受け入れて、「幼年期の親の育て方が悪かったのだ、それから脱却するのだ」と思い込む人がいます。家庭内暴力に至ることもありますが、そう簡単に脱却はできません。何故か? 罪の意識に取りつかれるのが、親の教育によるのでは必ずしもないからです。どうしても個人の素質というものが関与します。幼年期の信条と愛情の圧政から解放されたいという考えにとらわれ続けることが病的です。それから、脱却する、あるいは、その考えから離れることをもっとも可能とするのは、経験から言って何と薬物療法です。

 度の過ぎたナルシシズムは、自分自身を賛美し、人からも賛美されたいと願う習慣を本質とする。例えば、金持ちの社交会の女性の場合、すべての男性に愛してほしいという強い欲望に支配され、男性に愛されているとわかると、相手に何の用もなくなる。虚栄心が高まると、大画家に払われている尊敬に感銘して、美術学生になるが、絵画そのものには何の興味もなく、失敗と失望に至る。おおよそ、仕事上の本格的な成功は、その仕事で扱う素材に本物の関心が合るかどうかにかかっている。世間に賞賛されたいと思うだけの人間は所期の見込みを達成する見込みはない。しばしば自信のなさが虚栄心の原因となる。これを克服するのには、客観的な興味に刺激された活動を立派にやり遂げることだ。

 SNSは虚栄心やナルシシズムからできていると言っても過言ではないでしょう。称賛されたい、驚かれたい、尊敬されたい、見てもらいたい・・・。これらの願望が肥大し、それだけになってしまうと危険だということです。

ナルシシズムが魅力的であることを望むのに対して、誇大妄想狂は、権力を持つことを望み、愛されるよりも恐れられることを求める。多くの狂人と歴史上の偉人の大部分が属する。権力欲や虚栄心は正常な人間にもあるが、度が過ぎたり、不十分な現実感覚と結びつくと嘆かわしいものになる。アレキサンダー大王は、狂人と同じ夢を持っていたが、彼には才能があったため、偉業が次々に達成された。ただし、大酒癖、猛烈なかんしゃく、女性への無関心、神性の主張は、彼が不幸だったことを示している。

 その原因は、度を越した屈辱感であり、ナポレオンは、学生時代に経済的な意味で劣等感を級友に持っていた。亡命貴族の帰国を許したときに、以前の旧友が頭を下げるのを見て満足を味わい、権力欲は肥大化した。権力欲に支配された生き方が克服できない障害にぶつかるのは必然だ。彼は、セント・ヘレナ島に流された(1815年)。権力もしかるべき限度内にあれば、幸福を増すこともあるが、人生の唯一の目的となった時には、内的な災いをもたらす。

セントヘレナ島 ナポレオン流刑の地

 そういう強い虚栄心とか、ナルシシズムにとらわれて生きるのも、その人の運命だろう。その人が悪いわけではないでしょう。ただ、美しくはないし不幸です。それを何らかの方法で、克服できるとしたら、素晴らしいことだ。美しいことだ。稀なことだから一層輝く。人間の偉大さを感じます。

 不幸には共通点がある。不幸の見本ともいうべき人は、幼い時に正常な満足を奪われたため、この一種類の満足を何よりも大事に思うようになり、人生に一方的な方向を与え、その目的にかかわる諸活動ではなく、その達成のみを不当に強調するようになった人である。

 フロイト的な見方ですね。そういう人もいると思いますが、ラッセルと同じように、恵まれた環境で育ったのに、そして、両親は大切に育てたのに、偏ってしまうことはいくらでもあります。ご両親は自分自身を責めすぎないようにしてほしいです。子供が仮に不幸になったとして、さらにその原因は自分の育て方にあるなどと思わないでください。二重に苦しむことのないように。

 人は完全に意欲をくじかれたと思う時、一切の満足を求めようとしないで、気晴らしと忘却あるいは、快楽に血道をあげるようになる。泥酔は一時的な自殺行為であり、忘却である。これに対して、ナルシシストや誇大妄想狂は、間違った手段かもしれないが、幸福は可能だと信じている。幸福は望ましいものだと納得することが真っ先になすことだ。

 幸福になるという望みを実現するお手伝いができるかどうか、私にはわからない。しかし、少なくとも、そうした企てをしても悪くはあるまい。

 ウィキペディアによれば、ラッセルには、親族・家族に統合失調症の患者が多くいた(息子、孫娘、叔父、叔母など)といいます。これから考えると、彼の少年期の自殺願望は、心理的や社会的なものではなく、生物学的なもの、遺伝子と関連したもののように私には考えられます。天才や偉人というものは、どうしても、統合失調症とかうつ病と関連が深いといえます。もし、彼が意図的に自分の意識を数学など外界に向けようとして試み、統合失調症を回避できたとすればたいへんなことです。極端なことを言えば、統合失調症の遺伝子を持つ人は、統合失調症になるか、それを昇華して天才的なことをするかしかないのかもしれません。

 以前とりあげた、妙好人因幡の源佐も2人の息子は統合失調症です。

 そんなことが可能とは思えませんが、人間は、神経症的であったり、ナルシシズム、過剰に自己愛的であったり、誇大妄想狂であったり、なりふり構わない守銭奴であったり、どうしようもない女好きであったり、権力に固執したり、出世欲にとらわれたりするわけですが、それが、転回されて、違うように生きるようになる時、目ざめるとき、身近なものに温かい無償のまなざしを向けるようになる時、それこそが人間としてもっとも美しいことのように思えます

たとえば、ガンジーは、兄の指輪の金を削って、金に換えて、煙草を買い、隠れて吸っていました。また、学校には適応できずに逃げ帰り、若妻とイチャイチャしていて父の死にめにも会えませんでした。それが、想像もできないほど変わりました。酒井雄哉もラーメン屋時代、稼いだ金は友達と毎晩遊びほうけて、その日のうちに使ってしまいました。それが変わりました。

 そんなことが稀にできるとして、なぜできるかは分かりません。2023年12月