良寛と鷹山、方谷、継之助の接点

 例によって、偉人と偉人の接点を探っていきます。精神科医の視点を入れたいと思います。良寛、上杉鷹山、山田方谷、河井継之助の共通点です。

良寛

父以南の自殺

 1758年新潟出雲崎町名主の橘屋山本家の長男として良寛が生まれました。廻船問屋を営み、出雲崎にある石井神社の神職も務める名門でした。しかし、良寛の父、以南(俳号)は、俳句にのめり込む文学好きの気質を持ち、政治、あるいは商業向きではなかったようです。ライバルの敦賀屋との駆け引きに失敗し、没落していきます。

 以南はやがて、遺書を書いて京都の桂川で入水自殺しています。「天真仏のお告げによりて桂川の流れに以南を捨つ」。どこか統合失調症的です。幻聴のようにも思えてしまいます。良寛という天才と狂気との複雑な関係を感じさせます。

方谷の曽祖父の自殺と他殺 

 自殺と言えば、山田方谷の曽祖父益昌(ますまさでいいでしょう。どう読むのかわからないようです)は、自殺も他殺もしています。益昌の長男郡治郎は、定光寺で文字を習っていました。優れた素質を持ち、益昌は跡取りとして将来に期待を寄せていたようです。

 ある日、益昌が寺に行ってみると、寺の僧が郡治郎の髪を剃っていました。勝手に僧にしようとしていたのです。

 怒った益昌は、自宅に帰って遺書を作り、定光寺にもどって、僧を切り捨て、寺で自刃しました。その郡治郎の弟官次郎(当時4歳)が方谷の祖父です。その遺書がいまだに残っているというから驚きです。1739年、方谷が生まれる66年前。益昌39歳の時だそうです。普通に考えれば、殺さなくても死ななくても何とかなったのではないでしょうか。そこに狂気を感じさせますし、世代を超えた天才と狂気の絡みを示しています。

 定光寺は、山田家の先祖が室町時代に建立した曹洞宗良寛と同じ)の寺です。官次郎とその母親は19年間、故郷にもどれず大変な屈辱を味わいます。山田家には、怨念のような強い復興への願いがあったのです。それを具現したのが方谷だったのです。

良寛の子供時代

 栄蔵(良寛)は、おとなしく言葉少なで静かな子だったそうです。こうした偉人によくある感受性の強い子です。ガンジー白隠の子供の頃も感受性の強さが際立っていました。出来事に反応し、情感や態度に影響が表れやすいとでもいったら良いのでしょうか。多感な少年時代を生きます。そこが共通します。一般的には芸術家に向き、政治や商売には向かないように思います。

 栄蔵は、論語などを読みふける少年でした。7歳の時、地蔵堂町に開塾した大森子陽の漢学塾の三峰館に入ります。親戚の家に寄宿して通いました。

左の赤の下線が良寛の生地、右上が地蔵堂、新潟県です

良寛の師 子陽

 子陽は、江戸で学びましたが、その師の一人は細井平洲です。平洲は、上杉鷹山の師でもあり、鷹山は平洲に米沢藩の藩儒になってもらい、実際に何度か米沢まで来てもらっています。平洲は鷹山の重臣らにも講義をしています。鷹山の師の平洲の弟子の子陽が良寛の師なのです。これが良寛と鷹山の一つの接点です。同じことも学んだでしょう。

 子陽も藩儒(藩のお抱えの儒者)になりたくて、地蔵堂に帰った後も、平洲に米沢藩への士官のとりなしをたのんだそうです。ただし、うまくいかなかったようです。どこか、ちょっと攻撃的な面があり、それを平洲が危惧したらしいです。子陽は、最後は、舌禍により庄内藩の藩士に惨殺されたようです。方谷の同窓の佐久間象山もそうですが、性質の中にある攻撃性のようなものが最終的に不幸な結果につながっています。不思議を感じます。孔子の弟子の子路も同じような運命を引き寄せました。方谷は象山の不運を孔子は子路の不運を予感していたと思われます。

 子陽は、庄内藩の藩士に殺されたと上述しましたが、佐藤一斎に学んだ西郷隆盛は、官軍の長として庄内藩を攻めましたが、西郷が示した温情に感激した庄内藩士が明治3年に薩摩の西郷を訪ね、教えを乞うています。そして、「西郷南洲遺訓」となります。やっぱ、偉人は地元ではだめなんですなあ。庄内藩士は子陽を殺し、西郷に教えを乞うたことになります。子陽、西郷ともに儒学に精通した人物です。

 栄蔵は、18歳になった時に、一応勉学を終えて、出雲崎にもどりました。町名主である父以南のもとで、町名主見習いになりました。ところが、以南は、町名主の補佐役である町年寄の敦賀屋との対応を誤り、没落していきます。

家出

 町名主の仕事など自分にはできないと考えた栄蔵は、18歳時に家出をします。父親の難しい仕事を見ていたからでしょうか。そして、21歳の時に尼瀬の曹洞宗光照寺にて、僧破了の元で得度しました。22歳の時、破了の師である国仙和尚と出会います。栄蔵は、国仙に弟子入りして、その寺である岡山県の円通寺に旅立ちました。

良寛の円通寺と方谷の生誕地

 さて、円通寺は岡山県の玉島というところにあります。そこで、1779年から1790年まで修行を来ない、国仙から大愚良寛の法号をもらいました。そして、円通寺の雲水の最高位の首座(しゅそ)にまで上り詰めます。印可の偈を授かり、禅僧として一人前になったと認められました。

 その円通寺から離れること直線距離で37kmの所に現在の伯備線方谷駅があります。山田方谷が生まれ育ったところです。良寛が円通寺を去った15年後の1805年に方谷は生まれています。同じ岡山県です。その後、良寛はほとんど新潟県で過ごし、方谷は、岡山か江戸が多かったので接点はなかったと思われます。

 円通寺のある玉島は、松山藩の飛び地だそうです。これで方谷と良寛はさらにつながります。松山藩は玉島港で貿易をしていたのです。方谷の考えにより、鉄器を作って江戸などに売って、復興のために稼いだのです。渋沢栄一よりも早い「論語と算盤」です。

河井継之助

 なお、良寛の生まれた出雲早崎からほど近い、長岡市長町で、河井 継之助が文政10年1月1日(1827年1月27日)に生まれています。北越戦争で、新政府軍と戦い破れた長岡藩の家老です。良寛は文政2年に、長岡藩主牧野忠精と会ったらしいです。継之助が生まれた文政10年、70歳の良寛は、30歳の貞心尼と仲良くしています。

 司馬遼太郎は、「峠」で継之助を描いていますが、「人間の芸術だ」と言ったそうです。また、河井継之助記念館のすぐ近くに山本五十六記念館があります。行ってみたいものです、浦和から十分日帰りで行けそうです。

文政10年

 良寛は1797年に越後に帰り、継之助が生まれた文政10年には、島崎(長岡市)というところにいました。1831年その地でなくなっています。つまり、河井が生まれてから4歳まで、死を目前にした良寛が同じ長岡にいたことになります。

 鷹山が米沢藩の復興、方谷が松山藩の復興のために粉骨砕身の働きをしました。同様に二宮金次郎が小田原藩桜町の復興のために努力していましたが、この文政10年は、金次郎が復興事業に疲れ果てうつ状態の極期で失踪した年です。金次郎と方谷は藩の復興の前に、自家の復興を成し遂げています。

 さて、攻撃性を秘めた人間は不幸な結果を招くと上述しましたが、継之助にもそういう面があり、方谷はそのことを予感しており、継之助との別れの時に、身を大切にするよう王陽明の書に綴ったらしいです。

佐久間象山

 継之助は、朱子学を教える佐久間象山の塾に通い、砲術の教えを受けていました。ただし継之助は象山の人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったといいます。しかしです。方谷は、象山と継之助に共通の問題点を認めていたかもしれません。

 佐久間象山は佐藤一斎の元で方谷とともに学んだのですが、塾長になったのは、2か月遅れで入った方谷でした。象山は、吉田松陰はじめ多くの偉人に影響を与えた人物です。負けず嫌いな象山は方谷に議論を吹っかけて突っかかります。しかし、方谷には及ばなかったようです。象山もその攻撃性の故か、暗殺されます。

 「攻撃性を持った人間は攻撃性によって不幸な運命をたどる」というのは精神医学的法則でしょうか。

継之助と方谷

 安政6年(1859年)、継之助は再び江戸に遊学し、さらなる高みを目指して、備中松山藩の方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出ます。当初、農民出身の方谷に対し、継之助は尊大な態度に出ていたそうです。しかし、直に方谷に接することにより、彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになったといいます。方谷の許で修養に励んだのは9か月間だったらしいです。

 継之助は方谷の元を去る道々、方谷の方を振り返りながら、三回土下座をしたということになっています。この点をみると、継之助は人をみて態度を決めるというようなところがあったのかと思ってしまいます。

 良寛が生まれる7年前の1751年に鷹山は江戸の麻布で生まれました。日向高鍋藩秋月家の江戸藩邸です。彼は1760年に上杉家の養子となり、上杉家の江戸藩邸に入りました。

鷹山の生まれた秋月家の藩邸と松

 この鷹山の師となったのが、細井平洲であり、初講義は1764年11月16日であり、平洲37歳、鷹山14歳でした。殿様だから、良寛とは異なり個人教授です。藩主となって2年半後の1769年10月27日に米沢城に到着しました。

旧南部美濃の守邸(青矢印)にある松 今は愛育病院

 そのころ、地蔵堂で平洲の弟子、子陽が1766年に三峰館を閉じたため、良寛は寺子屋で学んでいた時期でした。

 平洲は1771年5月から1772年3月頃まで米沢に滞在しました。

良寛米沢へ行く

 鷹山平井平洲の弟子、良寛は平井平洲の孫弟子ということになります。そのことを良寛は子陽から聞かされていました。逆に鷹山は良寛のことなど知らなかったでしょう。

 良寛は文政4年(1821年)から6年にかけ、米沢と鶴岡に旅をしています。大森子陽は、良寛に細井平洲と上杉鷹山のことを熱く語っていたようです。そのへんを確かめたかったようです。米沢ではどこを訪ねたのかはわかりません。その後、庄内藩鶴岡を訪ねます。鶴岡は、舌禍がもとで子陽が庄内藩士に惨殺された地だそうです。その遺髪を納めた寺に行ったそうです。細井は1801年に死去しています。

 そして、問題なのは、鷹山の死期です。文政5年(1822年)3月12日、72歳の鷹山は、米沢で死去。このとき、ちょうど良寛は旅の途中で、鷹山の近くにいたはずなのです。良寛がその生涯でもっとも鷹山に近づいた時に鷹山が死亡したのです。これは、偶然なのでしょうか? 良寛は死神だったのでしょうか?

それとも偉人同士が引き合ったのでしょうか?

このように、偉人と偉人は網のようにつながっています。