生き方を妙好人に学ぶ その5 源左の名言

ここでは、妙好人 因幡の源左の名言をお示ししましょう。

 谷口光造という人が、源左に「わしゃ癇癪性でや」と自分の怒りっぽいことを源左にどうしたらいいかと聞きます。

 源左、「だんなさん、あんたはええものを持ってますなあ。癇癪は癇癪玉ちって、ですけなあ。宝ちゆうものはめったに人に見せなはんすなよ」(ご主人、あなたはいいものを持ってますね。かんしゃくは、かんしゃく玉といって、宝物ですから。宝物というのは、そう簡単に人に見せない方がいいですよ)

 普通は否定しますけれども、源左はこれも肯定します。まじめなのか、ふざけているのか、わからないですね。でも、何か反論もしにくいですね。精神科医から見ると、谷口さんは、自分の性質を自覚していますので、問題はかなり解決に向かっているともいえます。そう伝えるかもしれません。

 源左、「お上さん、腹の立つなあおらは人一倍でござんすだけどやあ、おらはこらえる力がござんせん。だけど、こらへさしてもらひますだがやあ、ようこそ、ようこそ」(腹が立つとか、怒りっぽいのは、私は人一倍ですけれど、私には我慢する力がありません。だけど、我慢させてもらっているのです。ありがたい、ありがたい)

 相手が我慢しているということを認識するのは非常に困難なことです。どうしても自分だけが我慢しているのだと思ってしまう、なかなか人の苦労はわかりません。源左は、損をさせられても侵害されても腹立ちません。自分を低く低くします。人の捨てたすえた飯を洗って食べます。親様が堪えさせてくれているという認識です。自分が耐えているという自覚は高慢さと結びつきます。

 「爺さん、子供が障子をやぶりおるがなあ。なして叱らんだいのう」(おじいさん、子供が障子を破っていますよ。なんで、叱らないんですか) 源左、「子供の時分でなけらにや、破る時がないだけのう」(子供の時にやらないと、破る時がないですからね)。さあ、子供を叱るのがよいのか、源左のように考えるか。源左は当たり前のルールを語りません。

 棚田ちか、源左に「うちの親爺さんは、よう酒飲んで、ぐづったり、叩いたりして困るぞういなあ」。源左、「なしたこと云はんせ。だれが他人がぐづつたり、叩いたりするだいのう。親爺ならこそ、ぐづつたり、叩いたりするだけ。こんつあん(お前さん)大事にさんせえよ」。(ぐづるは叱る)夫が酒を飲んで暴れる、いろいろと厄介なことを言う、愚痴を言う。そんなとき、源左は、夫だから妻に甘えてそうするんだから、そんな夫も大切にしたほうがいいのではないかと言います。
 わがままで、甲斐性がなく、妻に甘えているダメな夫。家庭内暴力のある夫。しかし、折れそうな心で外ではそれなりに頑張っているかもしれない。少し大事にされたら嫌されて立ち直るのか。妻は、大事にしよう、嫌わないで、もう少し付き合おう、犠牲になろう、妻は少しだけ前向きにまれるだろうか。源左のような愛情の力があるなら何かを変えることができるかもしれません。

以上は、怒りについての源左の受け取り方です。

 松田仁左衛門という同行と御本山(本願寺)に詣でたが、甚左衛門が大地にひれ伏して拝む姿を見て、源左、「親さんの膝元だけなあ、なにもそげに頭を下げんでもええだがのう」。

 源左は家の御内仏の前で、よく居眠りをしていた。行儀が悪いととがめる人があると、源左、「親さんの前だげな、なんともないだあ」。

 ある夜源左は、御文章(蓮如が浄土真宗の教えを分かりやすく書いたもの)を持ったまま、ご仏壇の前でごろりと横になって、高いびきをかいていた。二瀬川(近所の関取)が之をとがめたところ、源左、「なあに、これが親さんの特徴だけのう。裁判所ぢや寝ちつたつて、よう寝とらんだけのう。ようこそ、ようこそ」

 上の三つは、他の妙好人にもみられる特徴です。寺院などに過剰な気遣いはしない。それは、親様は、受けいれ、許してくれるものだからです。裁くところではない。そして、それによって、親様は親様の役割を果たすということなのでしょう。

 光輪寺の奥さんを、人が可愛げがないというのを聞いて源左、「可愛げがない可愛げがないってある方が出しやええがなあ」。人にむりな期待をしてもすすまない。人を裁くのでなく自分からなんとかしよう。

 風呂が熱いとき、「しっかりしていてええがのう」。ぬるいとき「ぼんやりしていてええがやあ」。源左はもっと熱くしてくれとか自分の要望を言わないのだろうか。自分が環境に合わせるのだろうか。他人にもっと熱くしてくれとか注文しないのだろうか。しっかりと自分の意見を言うべきだという考えの人が多いでしょう。源左は、与えられたものを、そのままありがたくいただく。自分というものがない、ということなのでしょうか。外界にこうあってほしいというような期待は抱きません。

 同様に、飯が硬く炊けたとき「おれはおこわがすきでやあ」。ゆるいときは、「おらあ、おかゆがええがやあ」つまり、相手が差し出してくれたものをみんな肯定してしまう。自分の好き嫌い、こだわりはないのだろうか。文句はいわないのだろうか。

 さらに、息子の死、火事で自宅が丸焼けになったこと、川に落ちて血だらけになったことも、肯定的に受け取ります。

 「おらがええといふ心を持ちなさんなよ。これをようたしなめてつかんせえ」謙遜、慎しさ、分をわきまえる心は、高慢さと対極にあります。

 肯定的にとるのは同じで、「お爺さん、飯だで」というと「ああ、飯よりうまいものがあるかいさ」。「爺さん餅だで」というと「ああ餅よりうまいものはあるかいや」。源左は飯がうまいということをときどき言っています。おかずではなく白米そのもの。噛めば噛むほど味が出るなどといっています。二宮金次郎も桜町では、ただ、廻村の途中飯に水をかけたものだけを食べたという記載があります。ガンジーは徹底した菜食主義にこだわりました。そういえば、マザーテレサもスラムに出ると決めたとき、コメに塩を掛けたものだけを食事にしようとしたようです。シスターたちに反対されてやめたのですが。キリストはパン。千日回峰行の酒井雄哉の場合は、うどんだけ食べていることもありました。普通の人では無理だと彼は言っています。しかし、みな炭水化物ですね。今は、糖質ダイエットとか言って、炭水化物は嫌われている。でも、コメやイモなどは、われわれ日本人をずっと支えてきました。

 他人の田んぼにモグラが穴をあけて、田の水が流れるのを見ると、丹念に塞いで、そのことを田主に言わなかった。自分が言えば、お礼を言われる。そうしたら五分五分になってしまう。おらは、こめさせてもらうのだから、それにお礼を言ってもらっちゃあ申し訳ない。

 まとめるとどうなるでしょうか。源左は怒りの感情に支配されることがない。何か、怒りを生じさせるような他者の行動があっても、子供が障子を破っても、子供にしかできない、子供らしいとうれしいことにとる。それを肯定的にとらえてしまう。何か通常の自分の好みでないことが起こっても、相手が作った状況を肯定する。要求をしない。注文をしない。周囲に合わせる。状況に合わせる。

 得乗和上に連れられて本山にお参りしたとき、源左は人力車に乗せられた。和上の車夫は若者だったが、源左のは老人で遅れがちになった。源左は止めさせ、「お前さん乗んなはれ」と言って、車夫を載せ、源左が引き出した。これを見て和上は「銭出して乗せたものをそんなことをする」と言って叱った。自分が特権を持つことが恥ずかしい。いいことが嫌だ。

 源左が夕立にあってびしょぬれで帰ってきた。願正寺の和上さんが、「爺さん、よう濡れたのう」というと、源左、「ありがとうござんす。鼻が下に向いとるでありがたいぞなあ」。

「人はおらを人間がいいといいますけど、おらが喧嘩しないのは、喧嘩するほどの知恵がないからで。それどころか、鬼や大蛇は人の肉を食うが、この源左は人の心を食いますでなあ。恐ろしい奴でござんす」。何だか、意味が分かるような分からないような。

「おらの心は邪慳だから、親様は悪い奴を見抜いて、人より先におらを助けるっておっしゃる。おらのような者は参られんけれど、こ奴を目当てだといわれるのだから」。謙遜や高慢でないことはあるのですが、親様からは、こいつが目当てだと選ばれている。親鸞にも同じような、自分だけが選ばれたという記載があります。

病床の源左は、息子の竹蔵の嫁のおとよに「おらは、このようにやかましいから、川にでも流してくれ」というと、おとよは、「猫や犬を投げたって汚いのに、爺さんを川に流せば人が嫌います」。「本当にそうだなあ。人の嫌うことはいけないな。おらは誰より汚いから」。

とりあえず、今日はここまでといたします。

生き方を妙好人に学ぶ その5 源左の名言” に対して1件のコメントがあります。

コメントは受け付けていません。