人格水準の低下(医療関係者向け)

はじめに 

人格水準の低下」は、「人格障害」、「人格の荒廃」と並んで恐ろしい精神医学用語である。「人格」とは、人間にとってもっとも大切なものの一つであり、人間そのものだともいえる。それが低下してしまってはたまらない。人間の価値の低下のように思われてしまう。

 「あなたに、胃癌が見つかりました」という時には同情が伴う。お気の毒にと思う。しかし、「あなたには、人格水準の低下があります」ともし言ったとしたら、同情ではなく、告知者から非告知者に対する陰性感情の表明というニュアンスが含まれる。そのほかにも、精神分裂病、感情鈍麻、人格水準の低下、いずれも同様の意味で問題のある用語である。できればより良い名称に改めるべきだ。

より望ましい用語へ

 こんな症状を引き起こすことが可能な病気は精神疾患だけだ。精神疾患は夢や希望を奪う。経済的問題も引き起こす。当院の患者さんの1/3が生活保護受給者で、もう1/3が非課税世帯だ。統合失調症の病状の一つに貧困がみられるといえる。

 そしてまた、この病気は他人からの理解も同情も奪う。こんな症状を持った病は他にない。同情どころか、付き合うのはごめんだという考えになる人も多いし、そう思われてもしかたないような病状や行動を時に引き起こす。人に嫌われるようなふるまいをさせてしまう恐ろしい病気だ。

 だから、精神科にかかわる者、特に重症な患者を診ている精神科病院で働く人は、自分が最後の理解者になるという覚悟が欲しいものだ。だが、この道を正しく歩むのはそう簡単ではない。 

 脳梗塞とか脳出血、脳腫瘍などの脳の器質的病変は、その部位によっては、人格水準の低下をきたしうる。しかし、統合失調症は、明確な器質的な脳の損傷が見られなくても人格水準が低下することがあるし、軽度の人格水準の低下は多くの患者でみられる

人格水準低下の捉え方

 人格水準の低下を正確にとらえられれば、それは他の精神疾患では稀なことなので、診断にも役立つ。神経症レベルだと人格水準の低下はないとされるからだ。精神科にかかわる者としては、精神病による人格水準の低下をしっかりと捉えられるようになりたい。

 こういう場合、まず、人格という言葉を定義するべきだと考える。ヤスパースの精神病理学言論の中の人格の項をみると「人格」を一文で定義することはできないようである。いろいろな側面から人格というものを明確にするようなアプローチの仕方であり、どうもスッキリはしない。

 精神医学は哲学になってしまってはいけない。観察可能な事実に落とし込んでいかなければならない。人格水準の低下は、外見にはどのように現れるかである。 

 外見にあらわれるものがある。身なりからみてみよう。人格水準の低下としてみられるのは、外見が整っておらず、無頓着になっていることである。

 具体的にいえば、髪の毛がぼさぼさである、寝癖がついたままである、ひげが伸び放題である、あるいは、衣服が不潔であったり、ぼろぼろであったりすることである。入院している患者の中には、以前はきちんとしていたと思われる婦人の上着が食べこぼしで汚れたままになっている。それなのに、そのことに気が付いてはいない、無関心である、恥ずかしいという感じを持っていないようにみえる。入浴を長期にしないことも多い。そのような行動をしないということである。

 また、周囲の生活用品の管理の具合である。ものすごく不潔になっているのに放置している、片づけられない、ごみ屋敷である、物が散乱している。つまり、整理整頓ができないし、そのことを気にしていないことである。生活全体がだらしなくなる。

 ふつう、自分できちんとした身なりや整頓をしてスッキリしたいという動機や他人に不快感をあたえないためにとか、他人から悪く見られないようにするという動機によって、これらの行動がなされると考えられる。したがって、これらの動機が乏しいか、つまり、無関心か、動機があってもそれを実行に移す意欲に乏しいということになる。これを確かめることは難しい。

 言動に現れる人格水準の低下として、行動が、道徳的、倫理的、常識的であるかである。つまり、基本的な人の道を守れるということである。人に不快感を与えたりしないかということである。生活態度といってもいいかもしれない。その社会の常識的な程度の中でのことである。

 思考の点ではどうだろう。複雑なものを単純化して捉えるなども生活の質の低下といえるかもしれない。簡単に思い込んで信じ込み、訂正が効かない思考様式とか。昔は倫理的だったのに、非倫理的なふるまいをするようになる。

 感情面では、繊細さやあたたかさなどが欠乏して、平板化、鈍麻するということだろう。この結果、無関心になるといえる。

外見不潔、ぼさぼさの髪、衣類のだらしなさ、乱雑な生活空間、ためこみ
行動入浴拒否、怠惰、無為、意欲低下、生産性の低下、整理整頓の不可能、単純で簡単なことだけする、ゲームやSNS
言動道徳的、倫理的、常識的なふるまいができない
思考論理的思考の不可能、単純な思考、思考力の低下
感情平板化、鈍麻、無関心、葛藤のなさ
人格水準の低下の現れ方

典型的な統合失調症においては、これらの各分野での水準の低下がいられる。もし、感情平板化だけが進まないとしたら、そこには葛藤が生じることは明らかであり、つまり神経症水準となる。あるいは、できないことに対して苦悩するうつ病になる。

 だから、統合失調症の人格水準の低下では、これらの各分野の同時多発的な低下がみられるといえるだろう。この事実が診断に役立つことがあるだろう。

統合失調症の経過の一例

統合失調症の情意鈍麻、欠陥、陰性症状

 精神分裂病と言われた時代、この病になると、慢性・進行性の経過をとり、再燃を繰り返しながら情意鈍麻の荒廃状態に陥るとされていた。感情鈍麻に無為を伴うと情意鈍麻になるとされている。つまり、統合失調症の典型例に於いては、この2つ、感情の鈍麻と意欲の低下が同時に起こることを示している。これが、人格水準低下の本質に近い。

 また、統合失調症の欠陥状態という用語も使われてきた。欠陥(defect、デフェクト)などという。病勢の進行により、知情意のどこかに欠けたところが生じるという考え方で、このようにいうのだろう。濱田によれば、欠陥の程度や病像は多様だが、思考、感情、意志の各側面とも単調・平板化し対人接触は表面的となる。

 大月は、人格荒廃状態(欠陥状態)は、感情、意欲の高度の鈍化という。重症の情意鈍麻ということだ。感情鈍麻、無為で、暑さ寒さ、不潔さ、対人接触などすべてに無関心であり、動きも少なくぼんやりしている。あるいは、無目的な徘徊があったり、空虚で子供じみた態度、行動を示す児戯牲もある。

 西丸は、欠陥状態(defective state)を知能的及び人格的の退化崩壊、精神的人間水準の低下であるとした。認知症や器質性疾患でも起こる。統合失調症の場合、知能の低下はほとんどないが、その知能を用いて生活することがない。感情が鈍く、興味や関心が失われ、意欲が減って努力して作業することがなく、無為茫然としてその日その日を送るものぐさな無精者という状態になる。これを分裂性欠陥状態というとした。しかし、統合失調症でも知能検査での動作性IQの低下は現代的には明らかである。

 さらに西丸は、この欠陥が軽ければ、知能が保たれていることははっきりわかるが、感情、関心、意欲の傾向が変わり、ずれを起こし、人格のまとまりが薄れて、奇妙な人間、了解性の少ない人間、奇人、変人というように見えるとしている。

 「欠陥」は、どうみても現代にはふさわしくない医学用語である。DSM-5によれば、情動表出の減少と意欲欠如という2つの陰性症状が統合失調症で目立つとする。情動表出の減少とは、顔の感情表出、視線を合わせる、発語の抑揚などの低下、会話の中で感情を強調するために通常みられるような手や首、顔の動きの減少が含まれる。意欲欠如は、自発的な目的に沿った行動が減少することであり、長い時間じっと座ったままだったり、仕事や社会参加に興味を示さない。陰性症状にはこのほかに、無論理、快感消失、非社交性がある。無論理は会話量の減少としてあらわれる。快感消失とは、よい刺激から喜びを感じる能力の低下や過去に体験した喜びを想起する能力の低下である。

 諏訪の教科書では、人格水準の低下は、脳外傷で起こるとされ、受傷前とかなり違った人柄を示すようになることがあるとしている。自発性の減退、抑制欠如、道徳感情の鈍麻、衝動的な行動があり、一般的に前頭葉、とくに眼窩脳に損傷を受けたときにおこりやすいといわれている、としている。実際、なかなか症例に遭遇することはできない。私自身は、交通事故で脳損傷を受けたあと、易怒的で窃盗、暴力、不機嫌を繰り返した一例を見たが、本当に事故によるものなのか疑わしく思っている。この例では、統合失調症にある感情鈍麻は認められなかった。

 諏訪は、統合失調症の慢性期には感情は鈍麻し、空虚な荒廃状態に陥り、このような欠陥分裂病の病像は多彩な様相を呈するとしている。慢性期の病像の基盤になっているのは、感情の鈍麻ないし荒廃、意志の発動の減退である無為、談話の内容のまとまりなさであるとする。そして、わずかな欠陥を残して緩解し、長期にわたり、独善的、社会性がない、変人としての状態が続くことがあるとした。そして、奥田三郎の欠陥状態に関する論文を引用する。ただし、奥田の論文は戦前のものであり、現代における慢性期病像の詳しい報告が必要である。

関連する用語

 大月によれば、意欲 (volition) とは欲求意志をまとめていう。欲求 (need) とは行動にかりたてる力であり、快、不快の感情と密接な関係がある。欲求は欲動と欲望に分けられる。欲動 (drive, Trieb) とは、食欲、性欲、集団欲など自己の保存と種の保存のための基本的な欲求をいう。生理的欲求ともいう。本能が環境の影響を受けて発達したものである。欲望 (wish) とは文化的・社会的に発達した欲求をいう。安全、地位、財産、名誉などを欲することであり、社会的欲求ともいう。意志 (will) とは欲求を行動として現すか、抑えるかを決定するものである。行動 (behaviour) は意欲の現れである。行動は動物にも用いられるが、人間的行動を行為 (act) という。発動性 (initiative) とは、精神的活動や運動を起こすもととなる力である。欲求が意志による抑制を受けないでそのまま行動に現れるものを衝動行為 (impulsive act) という。衝動 (impuls) とは行動に駆り立てる強い欲求である。葛藤 (conflict) とは欲求と欲求の間、あるいは欲求と意志の間の解決されない争いである。例えば攻撃欲求と逃避欲求がともに起こり、どちらかに決められない状態などである。

また、大月は、発動性の減退は、うつ病、分裂病、器質性脳症候群などで起こる。うつ病によるものは精神運動制止(psychomotor retardation, psychomotorische Hemmung)である。統合失調症では自発性欠如(loss of initiative)といい、強度のものは無為(aburia, Abulie)であるとする。器質性のものは発動性減退(Antriebsmangel)という。

大月の説明

濱田によれば、欲動は、あらゆる精神活動の基になる力で、人はこれに駆られて行動・行為を起こす。食欲、性欲などの身体的なものと、権力、富、美などを求める精神的なものが区別されるが、どの範囲まで欲動に含めるかは議論がある。欲求については、不足を満たそうとする傾向としている。生物学的なものから社会的なものまで多くあると言い、達成の欲求、権力の欲求、存在の欲求などがあるとした。

 西丸の教科書の索引には、意欲、欲動、発動性などの用語はなく、欲求不満だけがある。西丸は、そういうことにこだわりがないのかもしれない。

 欲動は、フロイトと深いつながりがある。ラブランシュとポンタリスの精神分析用語辞典によれば、フロイトは、1905年「性欲論三編」の中で初めて、「Trieb]という語を用いた。欲動本能)は、人の心を駆り立てる心迫に存在している力動過程(エネルギー充填、運動要因)のことであって、この過程が有機体をある目標に向かって努力させている。ふろいとによれば欲動の源泉は身体刺激(緊張状態)であり、欲動の目標はその源泉を支配する緊張状態を解消することにある。欲動がその目標に到達するのは、対象においてか、あるいは対象を通してである。

 諏訪は、行為の原動力となっているのは欲動(食欲、性欲そのほか自己の保存発展のための欲求)であり、これは感情と密接に結びついているとする。精神運動興奮とは、意志発動が著しく亢進した状態であり、多動、じっとしていられず、多くは多弁を伴うとする。それ以外に発動性の用語を説明していない。諏訪もあまり用語にこだわりはないようだ。

文献

濱田秀伯:精神症候学.弘文堂

大月三郎:精神医学.文光堂

DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院

西丸四方:精神医学入門.南山堂

諏訪望:最新精神医学.南江堂

ラブランシュ、ポンタリス:精神分析用語辞典.みすず書房