私たち、精神科の医療関係者がもっとも遭遇しやすい知覚の障害は幻聴ですよね。しかも、抑うつ気分や睡眠障害などは、自分で時に軽度の症状を体験することがあっても、幻聴に関してはふつう体験できません。患者さんがどう体験しているのかは、話してくれないとわかりません。
 精神科では、ある症状をどのような言葉で表現するかということ、それを共通した認識とすることが、ケースを理解する上で大切です。今回は、幻聴などのように「知覚の障害」とされるものについて、古典的な教科書を横断して、比較検討してみましょう。「知覚の障害」という言葉は、「思考の障害」、「感情の障害」、「行動の障害」、「知能の障害」などと同レベルの障害のカテゴリーです。現症を記述する際に、どう記述していいかわからない時は、こういうカテゴリー別にみていくとわかりやすいかもしれません。

感覚,知覚,統覚の分類
 知覚は、感覚、統覚という言葉で表現されるものとどう異なるのかということですが、これは、精神科に関わるものとしては、違いを説明できた方が良いです。統覚という言葉は日常では使わないですよね。 ブリタニカによると、統覚は「哲学,心理学用語。対象がよく理解され明瞭に意識される知覚の最高段階,あるいは個々の知覚内容を統合する精神機能をさす。 G.ライプニッツが初めて用い,のちにカントによって対象を認識する前提としての意識の統一をさして用いられた。また W.ブントはこれを能動的な意味でとらえ,統覚心理学を展開した」とあります。

 ブリタニカでは、知覚の説明はこうなっています。「 一般的には,感覚器官を通して,現存する外界の事物や事象,あるいはそれらの変化を把握すること。広くは,自分の身体の状態を感知することをも含める。把握する対象に応じて,運動知覚,奥行知覚,形の知覚,空間知覚,時間知覚などが区別されるが,いずれの場合にも事物や事象の異同弁別,識別,関係把握などの諸側面が含まれる。心理学では特に,感覚と区別して,現前している環境の事物,事象の総体をとらえることであるとする定義や,複雑な配置の刺激と過去経験,現在の態度とに基づいて成立する意識経験であるとする定義がある。また,感覚器と神経系の刺激の受容・伝達活動と,それによって解発される人間の動作または言語的反応との間に介在する意識経験で,過去経験や学習の結果を反映する一連の過程を媒介として成立するものとする定義もある」とのことです。太字のところが感覚との違いでしょうか。まあ、ゆっくり読めばなんとなく理解できます。ただ、立場によって、定義は少し異なるということです。


 精神科医学の用語の表現としては、例えばこうされています。「知覚 perceptionは,有機体が感覚器の刺激を介して外界や自分自身の出来事,状態を知ることで,得られるものは情意(感情と意志)や記憶,思考のある程度関与したまとまりをもつ。感覚 sensationは,刺激に対応する感覚器からの情報で,知覚から記憶・思考などの作用を除いたより単純な機能や内容を指す。統覚 apperceptionは,注意を集中して多数の心的内容を統一し,意味を明瞭に把握すること。(濱田)」

 濱田先生の用語集は本当に役立ちますが、ただ、ここで、有機体といってしまうと、植物や微生物まで入ってしまい、本当だろうかと思ってしまいます。もちろん、ヒトの場合のことですね。

 感覚は知覚より原始的な段階,統覚は知覚より高次なものとして,私の師でありました大内田は以下のように具体例を示しています。

      感覚   赤い花      ある高さの声

      知覚   赤いバラの花   ある人の声

      統覚   美しいバラの花  威厳のある声

 大内田は、ご自分でロールシャッハ・テスト(知覚、統覚に関係する心理検査)を随分おやりになったので、この辺は関心の強かった領域の一つであると思います。

    感覚の種類とその性質について,大内田は次のように図示しています。

感覚の種類と性質

 「低次」の感覚では,状態性が強く感情的特性が強いということは,例えば「頭が痛い」,「めまいがする」,「胸が痛む」,「むかつく」,「腹が立つ」等々の感情表現があることを考えればよくわかるとしています。「高次」というのは、情報量が多いということです。視覚にはたくさんの情報があります。それをデジタル化したらもちろん大量のデータとなります。「低次」の感覚では、情報量が少ないといえましょう。また、「高次」の対象は、自分から遠方にありますね。「低次」ほど自分の体のすぐ外側とか内部などになります。

 次の用語ですが、「表象(ひょうしょう)」を精神医学では用います。知覚と表象の相違(大内田がヤスパースから引用したもの)表象は思い浮かべることであるとされています。イメージとして、分かればよろしいのだと思います。

知覚と表象の違い

知覚異常の分類

 知覚の疎遠(そえん)は,疎隔体験ともいい,外界の知覚の疎隔体験を現実感喪失という。「そこに物があることはわかるが,実際にあるという感じがしない」,「そこに在る物と自分との間にヴェールがあるようで,ピンと来ない」,「見るもの,聞くものが遠くにあるよう,夢の中みたい」など現実感がない状態をいう。感情の疎遠を伴い,自分が自分でないみたいという状態を離人症という。(大内田)

 知覚界の疎外 alienation of perceptionとは,知覚は正しく行われていて,感覚的材料も意味も正しく認められるのに,すべてのものが異様で,かけ離れていて,非現実的で生命がないと認識されることである。知覚された対象の現実感,実在感,生命感が失われる。これは自我意識の項に述べられる離人 depersonalization,現実感喪失 derealizationである。(西丸)

 生命のあるものに生命の存在を感じない体験を有情感喪失という。「人を見てもお地蔵さんのようにみえる」,「みんな人形のようにみえ,ただ居るだけ」など,これらの知覚の疎隔体験は,疲労困憊した時,離人神経症,うつ病,統合失調症初期でみられる。

 既視感(デジャヴ)とは,初めて見る状況なのに,以前に見たことのある状況そのままだと錯覚する体験。非常に疲労したとき,神経症,うつ病,統合失調症初期でみられる。これは、一般的に良く知られてますよね。

 未視観(ヤメヴ) とは,過去に見たことのあるなじみのある状況を,初めて見る状況のように錯覚する体験。報告例は少なく症状論的位置づけは不明です。

 微視,巨視,変形視:これらは,てんかんの視覚発作,離人神経症,せん妄,メスカリン中毒,急性精神病などでみられる。

 錯覚 illusionとは,実在する知覚対象が別のものとして知覚されることを言う。(大内田) 対象を誤って知覚することで,錯視,錯聴が多い。(濱田)注意が散漫なために見誤ったり聞き間違えたりする不注意錯覚,不安や歓喜による感動錯覚などがあり,軽い意識混濁,せん妄など意識変容のある時にも生じる。(濱田)
 錯覚では、知覚対象が実在しますが、幻覚では、それがありません。

 人物誤認は,ある人物を本人と認識することの障害で,既知の人を未知の人と錯覚するのと,未知の人を既知の人と錯覚するのに分けられる。
 瓜二つの錯覚(sosie:瓜二つの人,1600年代のモレルの喜劇に由来)は,よく知っている人物をその人ではなく(否認して)そっくりな別人,偽物,双生児などにすり替わっていると主張する人物重複あるいは変身の体験で,錯覚というより一種の妄想的解釈であり,離人症や拒絶症の要素を持つことがある。カプグラ症候群(Capgras syndrome)ともいう。二重身(Doppelgänger)は,外界に自分の姿を見たり,存在を感じたりして自分がもう一人いると思うこと。遠藤周作の小説にも会った記憶があります。替え玉錯覚(フレゴリの錯覚,1927)は,既知の人物(主に単数の迫害者)が次々に姿を変えて周囲の複数の人物になりすましていると確信すること。Frégoliは,舞台上の早変わりで知られたイタリアの役者の名前。

 パレイドリア(pareidolia)雲や壁のシミなど本来不定形の知覚素材が,特殊なものに知覚されることです。「入道雲が王様の上半身に見える」,「壁のシミがある人の顔に見える」,「電車のリズミカルな音が,あるメロディに聞こえる」など。錯覚は,知覚素材がそれと異なるものとして知覚されるが,パレイドリアでは,実在の知覚素材も同時に知覚している点では二重知覚で,錯覚とは異なる。

 幻覚 hallucination 知覚素材がないのに起こる知覚を幻覚という。真正幻覚は知覚的であり,偽幻覚は表象的である。幻聴 auditory hallucinationは,もっとも多い。

幻覚と錯覚とを一緒にして妄覚 perverse sensationという。非常にありありとしているが表象の性質を持っているならば偽幻覚 pseudohallucinationという。知覚と幻覚では外の空間に実際そのような実物があるとされるのであるが,表象と偽幻覚では心の中の空間に思い浮かべられた仮象であると意識され,ただ偽幻覚では像がありありとしていて,表象のようにぼんやりとしたものではないのである。となっていますが、実際の臨床像で、明確に分類するのは難しいこともあります。

 幻覚は主観的体験でありながら,その内容は外界における客観的な実態として知覚されるが,しかしときには,知覚よりは表象に近い形であらわれることもある。すなわち一定の輪郭をもっているが,主観性をおびた精神内界の出来事として体験される。つまり患者は頭の中で声を聞き,あるいは像を見ると陳述する。これを偽幻覚という(表象の場合は輪郭はもっと不安定となり,不鮮明で浮動的である)。しかし,幻覚か偽幻覚かをはっきり区別するのが困難なこともある。(諏訪)

 機能幻覚:外界の知覚に誘発されて,これに並行して同一の感覚領域に生ずる幻覚。水の流れる音に混じって声が聞こえるなど。

 要素幻覚:閃光,水滴音のように,光・音などの感覚要素の幻覚を言うこれに対して,話し声が聞こえる,姿が見えるなど複雑な内容を持つものを有形幻覚という。(主に大内田)

 体感幻覚は,いろいろな身体感覚の幻覚が含まれる。皮膚の熱感や虫が這いまわる感じなどの幻触,また,体が浮き上がったり,寝ているベッドに沈んだりする感じ,頭髪を引っ張られ,性器を弄ばれ,あるいは腹部を鋸で切られたりする感じ,さらに体がふくれたり,四肢が伸長したりする感じなどがある。統合失調症にしばしばみられ,被害妄想と結びつけられることが多い。フランス語圏では,体感症(cénestopathe)という概念が用いられている。これは一般感覚,ないし内臓感覚cénesthésieを異常に強く意識する状態で,統合失調症,うつ病,神経症などの症状としてとらえられる。一方,特に皮膚感覚の異常を強く感じ,それをかいせんなどの寄生虫によるものと解釈し確信する,いわゆる皮膚寄生虫妄想もまれにみられる。(諏訪)

 幻視 visual hallucinationは,比較的少なく,あればまず意識障害を疑う。中毒の時には対象が小さく見えることがある(酒,コカイン)。(大内田) アルコール中毒の振戦せん妄では,多数の小動物がうごめくのがみえるのが特徴である。(諏訪)

 後方,体内に幻視されるのは,域外幻覚extracampine hallucination(Bleuler)であり,1000kmも先から聞こえる,腹の中から声がする,胸の中に青い虫が三匹いる,自分の内臓が見えるなども域外幻覚に入れられる。(西丸)

 幻嗅(げんきゅう),幻味(げんみ)は,不快な内容で,妄想と密接に関係していることが多い。例えば,屍を焼く臭いがするので自分も焼き殺される,あるいは食物が変な味がするから毒が入っているなどのごとくである。(諏訪)

 シュナイダーは,次のように語っています。「幻覚(妄覚)とは,存在しないものが単に考えとして体験されるだけではなく,やや感覚的に体験されるものである。存在しないことは観察者によって客観的に確認されるのであり,体験する者によって確認されるのではない。現実に見えたり聞こえたりしなければ幻覚ではない。人にその体験を問う際,本当に幻覚が存在したかを確かめるのは困難である。幻覚がしばしば正常知覚と比較し得ないからである。時に患者は,上方や部屋の隅に向かって耳を澄まし,患者にしか聞こえない声に明らかに返答していることがある。また,声についての質問に対し,一部の患者は即座に答えたり,明らかにまごついて沈黙したり,逃げるような返答を試みるので,隠していても声が聞こえることがわかるが,幻覚のない者でも,我々が声について質問すると,無邪気に肯定する者がいる,ということを知っておくことが重要である。この場合,より詳細に質問すると,非実在の声ではなく,誰にでも聞こえる周囲の実在する声のことを言っていることが分かる」。

 統合失調症を想定するうえで診断的に極めて重要であるのは,自分の考えが聞こえてくること(考想化声,思考化声),言い合う形の幻声,患者の行為と共に発言する幻声(注釈するなどともいう)という特定の種類の幻声である。
「聞こえるのは私の考えです。静かな時,考えが声になります」、「昼夜を問わず自分の声が対話式に聞こえてくる。つまり,一方の声はいつも他方の声の反対のことを言う」、「彼女は今食べている。もうまた食っている」,「彼女はそこで何をしているのか。犬にクリームを塗っている」。

 身体幻覚であるといえるのは,被影響体験と結びついている場合にほとんど限られる。この場合,統合失調症の診断に重大な所見を得たことになる。身体的被影響体験は器械,光線,暗示,催眠のせいであると考えられることが多く,しばしば性的性質のものである。
「世界中の発電所が私に向けられています」、「本当に男性と性交しているような,ある種の性交でした。でも現実は,男性がそこにいたのでなく,私一人っきりでした。その人が私と一緒にいる,つまり本当に男性と性交しているようでした。ただ,そう感じるのです」

幻覚をどのように調べるか

 まず,意識障害の有無を明らかにする。幻覚の有無が診断に重要な意義を持つ,意識障害のない場合について述べる。幻覚(ことに幻聴)があるときには,患者は落ち着かず窓から外をうかがったり,天井裏に誰かが来ているなどと訴えるので,家人が気付くことがある。

「何か聞こえますか」,「何か見えますか」,「体に電波でもかかってきますか」,「変なにおいがしますか」などという質問は,患者が幻覚をもっているかもしれないと思われた時だけに行うべきである。実際に幻聴を体験している患者は,自分からも問われればすぐ幻聴について語るし,たびたび幻聴を体験している患者は,自分からも「また,聞こえるようになりました」などと陳述する。

 次に幻覚の内容と性質を追求する。幻聴ならば,はっきりした声(男,女,知人,未知の人,1人,大勢)が天井裏,戸外などの一定の方向から聞こえてくるか,あるいは頭の中に響くか,または批評,悪口,命令のようにはっきりとした意味を持っているか,あるいは漠然としたものかを聞く。

 実際に幻覚を体験している場合には,患者はこのような質問に対してかなり具体的に答える。このようなほぼ確実な情報を得てから,さらに「それはあなたの思いちがいではありませんか」,「確かに聞こえるのですか」というような質問で確かめる。(諏訪)

 西丸は以下のように語っている。幻覚は知覚と同じ体験であるかというと,そうともいえない。幻聴の場合多くはひょいと聞こえてきて,聞き耳を立ててよく聞くということはできない。聞くのではなく聞こえるのである。私を悪く言う声が聞こえたという患者に実際聞こえる声をその通りに言え,馬鹿と言われたのか何と言われたのかと尋ねても,答えられないことが多い。悪口の意味だけが外界へ投射されたとでもいうべきもので,これは知覚とも表象ともいえない第三のものであろう。(西丸)

※幻覚に関して大切なのは,患者さんに対して,幻覚の存在や内容について聞くということである。妄想等の他の症状の場合と異なる特徴である。態度からそれらしく思えても,聞いてみないとわからない。幻聴がないと思っていても,聞いてみたら存在していることがわかったり,過去にあったが現在はないことがわかったりすることがある。これはほかの症状とは異なるところであり,諏訪も西丸も幻聴の調べ方を特別に記載していることから,普遍的な法則であると思われる。聞くことにより,診断,重症度に関する有用な情報が得られることがあります。ただ、幻聴がないという人に毎回のように聞いてしまうと、関係が問題になってしまうことがあります。

参考文献

クルト・シュナイダー:新版臨床精神病理学.針間博彦訳,文光堂,2007.Kurt Schneider Klinische Psychopathologie,15.Auflage,2007

オイゲン・ブロイラー:内因性精神障害と心因性精神障害.切替辰哉訳Eugen Bleuler Lehbuch der Psychiatrie 1983

諏訪望:最新精神医学.南江堂,1985

ヤスパース:精神病理学原論.西丸四方訳,みすず書房.1985  Karl Jaspers: Allgemeine Psychopathologie 1913

山内俊雄ら編:専門医をめざす人の精神医学第2版.医学書院,1998

大内田昭二:メディカルスタッフのための精神医学概論,創造出版,2013

西丸四方:精神医学入門.南山堂,1949

濱田秀伯:精神症候学.弘文堂,平成6年

平成29年4月 院内勉強会のために菊池がまとめたもの