ラッセルの幸福論で幸福になる 2 「バイロン風の不幸」

第2章 バイロン風の不幸

 ラッセルは、不幸の典型例として 3人のペシミストを挙げます。

まず、バイロン。1788年イングランド生まれの男爵。ジョージ・ゴードン・バイロン。ラッセルと同じケンブリッジ大学出の詩人で、遊び惚けたり、やたら恋愛したりすることも多かった。ウィキペディアによれば、『チャイルド・ハロルドの巡礼英語版)』1・2巻(1812年)を出版、生の倦怠と憧憬を盛った詩風と異国情緒がもてはやされ、大評判になったといいます。「・・・この世の与える喜びは、奪い去る喜びに遠く及ばない」。ヘレスポンド海峡(ダーダネルス海峡:幅1.2~km)を泳ぎ渡って、かずかずの情事を重ねたといいます。

ヘレスポンド海峡(ダーダネルス海峡)赤線のところです

ラッセルによれば、伝道の書の作者は快楽の追求において一段と多彩であった。酒や音楽もやってみたという。多くの召使いもいた。喜びとなるようなものは何もかも持っていたという。しかし、一切は空しいと感じたという。

バイロン

 次に、「現代人気質」とう本を書いたジョセフ・ウッド・クルーチ氏。「現代のこの不幸な時代はその最終章には、「私たちは大義名分を失ってしまった。そして、自然界には私たちのいるべき場所はない」。ジョセフ・ウッド・クルーチは、アメリカ南西部で自然の本を書いたアメリカ人の作家、評論家、博物学者でした。1893年11月25日~1970年5月22日、コロンビア大学卒業。

 このクルーチのことを、ラッセルはさんざんに叩いています。同時代の人なのに大丈夫なのかと思うほどです。同じ1970年に亡くなっているのですが。年齢はクルーチが21歳若い。

クルーチ

 「すでに死んだ人を幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ。太陽のもとに起こる悪いわざはみていないのだから」。

 ラッセルは自分も一切は空しいと感じたこともあったのですが、それから脱しえたのは、何らかの哲学ではなくてどうしても行動を起こさなければならない必要に迫られたからであると言います。子供が病気の時は、一切は空しいと感じてなんかいられず対処しなければならない。金持ちもしばしば空しいと感じるが、財産を失えば、次の食事は決して空しいものではない。議論しても気分を変えることはできないといいます。

 ラッセルによれば、クル-チは、安全と保護に対する小児的な願望を捨てられないのだと言います。「そして、文学者のご多分に漏れず、科学はその約束を果たしていないと主張する。ダーウィンやハックスレーは科学に期待していたのに、それはまだ与えられていないと考えているようだ。しかし、それは妄想だ」とラッセルは言います。「科学の力で昔できなかったこともできるようになり、われわれは十分な恩恵を受けている。科学が約束を果たしていないという主張は、自分の専門があまり価値のないものだと思われたくない著作者や聖職者の抱いている考えにほかならない」と言います。

 こういうことを聞くと私は、現代の精神医学のことを考えてしまいます。精神病理学的な精神医学者のある種の人は、「生物学的な精神医学者は、統合失調症を説明するバイオマーカーを追い続けているが、その約束は果たされていない」と主張するのと同じなのかもしれません。

 また、クルーチは、シェイクスピアからイプセンの間に、神も人間も自然も矮小化したという。しかし、ラッセルはそうではなく、「シェイクスピアの時代は、ある種の人々が偉大な人間で、彼らのみに悲劇的な情熱を持つ権利があり、残りの人々は、ことごとく、これらひと握りの人々の偉大さを生み出すためにもうあくせく働かなくてはならない、というふうには現代では考えないということだ」。

次にラッセルが挙げるのは伝道の書(旧約聖書)です。

 ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う。空の空(くう)、空の空、一切は空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身に何の益があるのか。世は去り、世は来る。しかし、地は永遠に変わらない。日は出で、日は没し、その出たところに急ぎ行く。風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所にまた帰っていく。川はみな海に流れいる。しかし、海は満ちることがない。川はその出てきたところにまた帰っていく。

 すべてのことは人をうみ疲れさせる。人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。先にあったことは、また、後にもある。先になされたことは、また後にもなされる。

 日の下に新しいものはない。「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか。それは我々の前にあった世世に、すでにあったものである。前の者のことは覚えられることがない。また、来るべき後の者のことも、後に起こる者はこれを覚えることがない。伝道者であるわたしに行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、骨折らされる苦しい仕事である。

 わたしは日の下で、人が行うすべての技を見たが、みな空であって、風を捕らえるようである。曲がったものはまっすぐにすることはできない。欠けたものは数えることができない。わたしの心の中に語っていった、「わたしは、私より先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。わたしは心を尽くして知恵を知り、また、狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕らえるようなものであると悟った。

 それは、知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。(キリスト教聖書)

 
 そこでラッセルは言います。「彼(伝道の書の作者)は、すべてを持っていても空しいのだから人生は空しいと言うが、欲しいものをいくつか持っていないことこそ幸福の不可欠の要素であるということを忘れているのである」。

 「ある種の人々に冷笑的な態度をとらせる理由は、古い理想が無意識を圧政的に支配していることと、現代人が己の行為を規制するための合理的な道徳が存在しないことと関係がある。
 これを救済する道は、現代を嘆き、過去を懐かしむことにあるのではなく、もっと勇気をもって現代的なものの見方を受け入れ、名目上は捨て去ったはずの迷信を、薄暗い隠れ家から引き出して根絶やしにしようと決意することである」。

勝浦2023

 ラッセルは恋愛を高く評価しています。
 「恋愛は、まず第一にそれ自体歓喜の源として高く評価されなければならない。そればかりでなく、恋愛はそれがなければ苦痛の源になる。第二に、恋愛は音楽とか、山頂の日の出とか、満月の光を浴びた海といった、ありとあらゆる最上の喜びを高める。第三に、恋愛は自我のかたい殻を打ち砕くことができる。生物学的な協力の一つの形であって、そこでは、めいめいの情感が、お互いの本能的な目的を成就するのに不可欠だからである」。

 「ストア哲学とか初期キリスト教徒は、人間は自らの意志のみで、人間の協力なしで、最高の善が実現できると信じていたが、これは間違いだ」とラッセルはいう。「人間は協力に依存しているのだ」という。「そして、恋愛は、協力を生み出す情感の第一のもっとも一般的な形である」という。「最高の形の愛は、知られないままでいたに違いない価値をあらわにするものであり、それ自体、懐疑主義に毒されていない価値を持つものである」。

勝浦2

そして、シェイクスピアの言葉を挙げる。

乞食が死んでも彗星は現れないが、
王侯が死ねば、天自らが焔を放って知らせるのだ。(ジュリアス・シーザー

 シェイクスピアの時代と異なり、私たちは民主主義的になったので、現代の崇高な悲劇は個人より社会を扱うよりほかはないとラッセルは言います。もし、悲劇と真の幸福の双方を得たいのであれば、社会生活と生き生きした接触を保たなければならない。文学者のグループはそこが欠けている、と。

 世界には自分のすることなど何もないという思いを抱いてぶらぶらしている才能ある若者たちに、私(ラッセル)は言いたい。「ものを書こうとするのではなく、書かないように努めてみたまえ。世の中へ出ていき、海賊なり、ボルネオの王様なり、ロシアの労働者になりになってみることだ。基本的な身体の要求を満足させることでエネルギーの全部が費やされるといった生活に飛び込んでみることだ。クルーチのような病気にかかっている人にはこう言いたいという。こういう生活を何年か送れば、元インテリ青年は、いくら書くまいとしえも、もはやものを書かずにはいられないだろう。そして、この時には、彼の書き物は彼にとって空しいものではないだろう。

しかし、精神科医の目から見ると、クルーチの書き物にしても、伝道の書にしても、ある種の自傷行為のようにもみえます。マイナスの思考の表出は、苦境に陥った時に、一時的にも救済の意味を持っています。過量服薬、カッターによる自傷。決して好ましいものでないのかもしれませんが、それによって一時的にでも救われるということがあります。
 そういった自傷行為を断罪してはいけないのではないか? 精神科に従事している人は決してそのことで責めたりしてはいけないでしょうし、患者さんに二重の苦しみを与えてはいけないでしょう。患者さんたちは、そうすることで周囲に迷惑がかかったり、避難されたりすることをわかっていてもそうせざるを得ないのです。救急病院にも負担はかかりますが、こういった事情ですのでご理解賜りたいです。それも深刻な病気の症状なのです。健全な人の目からだけ見てはいけないのです。

 こうしてみると、ラッセルの言っていることは健康で正しいけれども、精神的に不健康な人を支援する立場の私からすれば、そう断罪しないでくれ、たまにはそういうこともあるさと考えてほしいと思います。ペシミストもいつもペシミストというわけではないでしょう。ペシミストが生き延びているのは、ペシミストではないときがあるからでしょう。ラッセルのように、いつも外的な問題に興味を持ち、健全さを保つことは誰にでもできることではありません。統合失調症では、外界そのものへの関心が薄れてしまいます。そこで、外界に関心をもって生活しなさいと言っても無理です。それを悪だとか不健全だとか言っても仕方ない。生きているだけでいいです。理解されないということに耐えていることだけでいいです。