ラッセルの幸福論で幸福になる 4「疲れ」
第5章 疲れ
不幸の原因の一つとして、ラッセルは「疲れ」を挙げます。
今日、この進歩した社会において最も深刻な疲れは、神経の疲れである。疲れの原因の一つは、騒音である。騒音を聞くまいと意識下で努力するために、なお一層ぐったり疲れさせる。大部分の現代人は、神経をする減らすような生活を送っている。そして、いつも疲れすぎているので、アルコールの助けがなければ楽しむこともできない。疲れは大部分、心配から来ている。そして、心配はよりよい人生観を持ち、精神的な訓練をもう少しやることで避けることができる。
きちんとした精神は、ある事柄を不十分に四六時中考えるのではなく、考えるべきときに十分考えるのである。困難な結論を出すときは、すべてのデータが集まり次第、よくよく考え抜いたうえで決断を下すがよい。決断した以上は、新しい事実が出てきた場合を除いて、修正してはならない。優柔不断ほど心身を疲れさせるものはない。
「すべてのデータが集まり次第」といいますが、厳密な人は、これだけのデータで判断していいのだろうか? と思うかもしれません。そこがあらゆる決断で重要なポイントです。これだけのデータで十分なのかということです。しかし、すべてのデータが集まることはないし、もし、すべてのデータが集まってからの判断だとすると、それは決断ではなく、必然的にこうなるということになるでしょう。多くは、不十分なデータで決断して先に進みます。完全でなくていいのです。決断のタイミングも大切なのですから。不十分な材料での決断がやがて良いドラマを生むこともあります。
私たちのすることは、私たちが考えているほど重要なものではない。成功も失敗も、結局、あまりたいしたことではない。大きな悲しみだって乗り越えることができる。おのれの自我など、決して世界の大きな部分ではない、という事実がある。自己を超越するものに思考と希望を集中することができる人は、人生の普通の悩み事の中に、ある種のやすらぎを見出すことができるのである。
ノーベル賞のことを考えてみましょう。ノーベル賞は、世界最高の成功と言ってもいいでしょう。しかし、もらえるかもしれないという人にとってはどうでしょうか? もらえるのか、もらえないのか悩んだり、今年ももらえなかったと失望すれば、ノーベル賞と関係ない人より不幸と言うことになります。ノーベル賞も人によっては不幸をもたらすということです。もらえる人よりも、もらえそうでもらえない人の方がきっと多いから、ノーベル賞は、どちらかというと不幸をもたらす賞かもしれません。ノーベル賞にノミネートされることは、不幸の始まりかもしれません。ノミネートが100人だったら落ちて当然だから、そう不幸ではありませんが、2人だったら、かなり緊迫するでしょう。もらえる確率が高いほど不幸だと言うのは不思議なことです。
成功しそうで成功しない人の不幸と、失敗しそうで失敗しなかった人の幸福ということもあるから、訳が分からなくなります。ともかく、頭の中の妄想が問題を引き起こすわけで、それらから超越できれば苦しみを引き起こすのでしょう。とらわれない自由な心になれれば。
過労のせいにされている害は、通例、過労ではなくて、何かの悩みや心配やらによるものである。情緒的な疲れの厄介なところは休息を妨げるということだ。例えば、破産の恐れがあるために長時間仕事をしがちになり、判断力が鈍ってきて、それほど仕事をしなかった場合よりも早く破産がやってくる。
取り越し苦労ほど不毛なものはありません。何も生み出さないし、エネルギーは消費する、その間は心配や恐怖におびえ続ける。現実的な失敗などよりもずっと損害が大きくなってしまう。しかも、その損害は自分が作ってしまったものです。妄想に苦しむのと同じです。取り越し苦労をしないことができれば大いにエネルギーと時間の節約になるでしょう。どうすればいいでしょう。取り越し苦労はやめると決心することでしょう。なぜ世の中に取り越し苦労があるのかというと、それなりのメリットがあるからでしょう。勇気をもって問題を注視しないこと、だが、なんとなく取り組んでいるような許される感じ。だから、問題を直視すること。そして、時間と他力を考えて問題から離れること。
その解決法として、さきに述べた、物事を考えるべき時に考える習慣を持つことである。
しかし、苦悩が深刻な時は、、意識下までしみこむのでなければ、たいして役に立たない。これこれの不運は、起こったところでそう恐ろしくはないと自分に言い聞かせるのはたやすい。しかし、これが単に意識的な確信にとどまっている限りは、深夜目覚めたときに作用しないだろうし、悪夢を見るのを防いではくれないだろう。十分な気力と集中を注ぎ込むなら、意識的な思考を無意識の中に植え付けることは可能である。このようにして、無意識に有益な仕事をさせることができる。私が相当難しいトピックについて書かなければいけないとき、可能な限りの集中力をもって数時間から数日考え、その期間の終わりに、この仕事を地下で続けよ、と命令することである。何か月か経って、そのトピックに意識的に立ち返ってみると、その仕事はすでに終わっているのを発見する。
心配事でもこれに類似した方法を採用できる。起こりうる最悪の事態を真剣に考えてみる。これを直視した後は、これはそれほど恐ろしい災難ではあるまいと考えるに足りるしっかりとした理由を見つけることだ。そういう理由は常に存在している。なぜなら、最悪の場合でも、人間に起こることは、何一つ宇宙的な重要性を持つものはないからである。
こうして、恐怖を感じないことを学んだ人は、毎日の生活の疲れが著しく減少することに気づくだろう。
あらゆる種類の恐怖は、直視しないことでますます募ってくる。あらゆる種類の恐怖に対処する正しい道は、理性的に、平静に、しかし、大いに思念を集中して、その恐怖がすっかりなじみのものになるまで考え抜くことだ。ともかく、神経の疲れの大部分は、意識的なあるいは無意識的な恐怖によるものである。
ともかく、人間は自分が作り出した亡霊に恐れを抱いています。恐れや心配には、悪い物事が起きなくなる予防効果といういい面もあるような気がします。確かに石橋を叩いて渡るとすれば、落ちる可能性を減らせるかもしれません。慎重であることは事故を減らせるかもしれません。
となると、有効な心配と無用な心配に分けられるということになります。そして、有効な心配だけをするようにしなさいということになります。
2024年1月