ラッセルの幸福論で幸福になる 7 「被害妄想」
ラッセルは次のように語ります
一人の人間が「周囲の皆から虐待を受けている」と語ったとすれば、たぶん、その原因は彼自身にあるのであって、実際は侮辱を受けていないのに受けたと想像しているか、それとも、知らず知らず、怒りを買うようなふるまいをしているのだと思われる。
経験のある人ならば、彼をうさん臭く思うだろう。周囲の人々が同情してくれないので、これらの不運な人たちは、万人が自分の敵だという思いをさらに強固にする。
そして、ラッセルは、この病気には大なり小なり、すべての人がかかっており、それを解消するのには、事態を理解することが必要であるという。
知人や友人に、意地悪なことを全く言わずにいられる人は少ない。ところが、誰かが自分の悪口を言ったということを聞くと怒りと驚きでいっぱいになる。私たちがほかの人を評価している以上に、ほかの人が私たちを評価してくれるなど期待できないのに、そのようなことは理解できていない。
被害妄想は、いつも、自分の美点をあまりに誇大視するところに原因がある。自分は素晴らしい才能を持っているのに、自分の戯曲はめったに上演されないし、されたとしても成功しない。それは、マネージャー、俳優、批評家がぐるになっているのだ。その理由は、自分がお偉方にぺこぺこしなかったし、批評家にお世辞を言わなかったということだ。
自分の発明のすばらしさを誰にもわかってもらえない発明家がいる。メーカーは自分たちのやり方に固執して技術革新を考えていない。少数の進歩的なメーカーは、それぞれ発明家をかかえこんでいて、無名の天才の侵入を防いでいる。組織に属さない人間は耳を貸してもらえないのだ。
そして、ラッセルはこの手の患者は治りにくいという。なぜなら、その見解に部分的な真実が含まれているからだという。
私にもそれに類する被害妄想の体験があるので紹介しましょう。もう十年以上前のことです。インフルエンザの予防接種の効果を検証しようと、精神科の入院患者の中で予防接種した人としない人とで分けて、冬の間、インフルエンザに罹患するかしないか調べました。すると、その年だけかもしれませんが、統計学的に見て、予防接種の有効性は見られませんでしたし、重症化(肺炎になるなど)を防ぐ効果も見られませんでした。それを医学雑誌に投稿したところ、編集委員会でけちょんけちょんに言われ没になりました。
私の論文が抹殺された理由ですが、インフルエンザの予防接種は、厚生労働省も推奨しており、重症化を防ぐ効果もあると謳っていたので、それに反することになります。また、インフルエンザの予防接種は全国の開業医の大きな収入源になっていますので、開業医にも製薬会社にも脅威を与えます。だから、私の論文は、医師会や学会から抹殺されたのだという妄想を持ってしまったのです。
次にラッセルは慈善家を挙げます。私たちが善行をする動機は、自分で思っているほど純粋であることはほとんどない。権力欲は油断ならない。権力欲は、いろいろな姿に変装し、人のためになっていると信じている行いをすることから得られる喜びの源になっている。
飲酒、ギャンブル、怠け癖など友人からの尊敬のためには控えなければならない罪をさっさと犯してのける人々へのねたみが慈善家にはあるとラッセルは言う。つまり、慈善的な行為によって悪徳から解放してもらったことを感謝されるのを期待するのであれば期待外れになるであろうと言う。
ラッセルがこれを書いたのは90年以上前ですが、なお同じような状況が見られます。禁煙は推奨されています、特に病院では。喫煙は止められればもちろんよいですが、患者さんたちにはやめられない事情もあるでしょう。やめられないことに罪悪感を持ってしまうのも問題であり、病状は悪化するし、かえってやめられなくなるかもしれません。最後の喫煙者は誰なのか、いつまで煙草を吸っているのか興味があります。医療者としては喫煙は止めてもらいたいですが、人間としては、最後まで吸っている人を驚異の目でみてみたいものです。何が善で何が悪か、そう簡単に峻別できるものではありません。少なくとも煙草をやめられた人がより立派だと思うことはいけないでしょう。
ラッセルは4つの公理を挙げます。
①あなたの動機は、必ずしもあなたが思っているほど利他的ではないことを忘れてはならない。
そうでないと、利他的に努力しているのに、それを少しもわかってくれないと思うようになる。失望したり恨んだりする。権力欲や虚栄心が隠れていることはよくあることだ。理想主義は単純な動機にいろいろ奇妙な変装をさせる。因習的な道徳は、人間性には荷が勝ちすぎるような利他主義を教え込んでいる。もっとも気高い人の行動ですら、九分通り利己主義的な動機に発している。しかし、これは生きるためには必要なことだ。
利他的であると、商売は繁盛する、お客様は神様だ。・・・・利他的であることの背景に、あるいは隠れた意図に、利益の獲得がないだろうか。じゃ、商売繁盛のために、利他的だあろうとするのか? 利他なのだと言いながら、自利のための利他でしかないなら吐き気がします。
松下幸之助もたしか稲森和夫も、商品の値決めが大切だと言っていた。つまり、利他だけなら、うんと安くなるはずだ。利他だけじゃなくて、利自または自利もあるし、必要な気がする。やはり、利他と自利のバランスが大切なのじゃないだろうか。
一番すごいのは、自分が「自利」で、他者に「利他」を押し付ける。恐ろしいことです。もっと、優れた方向に進めば、「自利同時に利他」、あるいは、「利他即自利」という境地に達するのかもしれませんが。神様でない限り、利他ももちろん、自利もあることを意識して当然と思います。
また、完全に利己的に、自己中心的に生活してやる、他者の気持ち、他人の利益など一切気にしないという生き方はどうでしょう。かえって、嘘がなくていいのではないでしょうか。人間ははたしてどこまで利己的に生きられるのか。どうしても利他が出てきてしまうのか?
②あなた自身の美点を過大評価してはいけない。
そうでないと、世間はわからずやだと思うようになる。また、美点を評価しない理由を考え、妄想的になるだろう。あなたがものを書くのは、ある思想や感情を表現したいという衝動を感じるためなのか、あるいは、拍手喝さいを浴びたいためなのか。
周囲の人が自分にいやがらせするのは、自分が特別、優れた人間だからだと思い込んでいる場合もあります。
③あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味をほかの人も寄せてくれるものと期待してはいけない。
そうでないと、がっかりするだけだ。昔病気の貴婦人は、娘の一人は看護師の役目を担ってほしいと考えるのが常であった。他の一人の人のために、自分の主たる生き方を捻じ曲げるようなことをなんぴとにも期待すべきでない。ときには、どんな大きな犠牲を払っても自然になるほどの強い愛情が存在するかもしれない。しかし、自然でない場合は犠牲を払ってはいけないし、犠牲を払わないといって非難されるべきではない。
医師としての職業のことを考えてみる。たしかに、献身的でなければならないでしょう。著しい長時間勤務を強要する風潮が、最近までみられたのは事実です。ほぼ、1年間病院から出られないという研修医や専攻医もいるだろうし、それを当たり前だと思わせるような風土もあるでしょう。それができないのは、利他の精神が足りないとか、医師というのはそういうものだとか、そう思わせることが大いにあったろうし、それは正しいと思われていました。カンファレンスなど何時まででもやっていたし、外来も夜中までやっていました。
④だいたいの人は、あなたを迫害してやろうと特に思うほどあなたのことを考えているなどと想像してはいけない。
特に重要でもない人が、他の人が絶えず自分のことを考えていてくれると空想する場合は、狂気への道を歩んでいるのだ。真実がどんなに不愉快なものであっても、きっぱりとそれに直面し、それに慣れ、それに従ってあなたの生活を築き上げるようにした方がいい。
迫害するのにも時間とエネルギーがいります。重要人物ならともかく、ほとんど多くの人は他者にとって、それほど重要人物ではありません。
2024年4月