はじめに

 因果関係という言葉は日常生活の中で、それほど頻繁に用いる言葉ではないかもしれません。しかし、精神科領域の中では、因果関係の問題は毎日のように臨床場面に立ち現れます。これはどれも興味深いもので、私には気になってしかたがありません。そして、この因果関係を理解することが、精神療法や精神科の治療と関係する気がするのですが、なかなか核心には迫れないというところです。因果関係に関心を持つ精神科医療関係者はいますでしょうか。もしいらっしゃいましたらとてもうれしく感じますし、今まで関心を持たなかった方も、精神医療においても、因果関係が重要な意味を担っているということに気付いていただければありがたいと思います。

 さて、因果関係が現れる例を出しましょうか。精神科の病棟内で今日イライラして椅子を投げた少女がこう言います。「看護師さんが分かってくれなかった」。お母さんをぶったのは、「私のことをちっともわかってくれないから」。「自分がこうなったのは、親の育て方が悪かったから」。このような因果関係(のようなもの)を患者さんが前面に押し出して、自分を正当化するというのはよくみられますよね。

 どうでしょうか?これらの主張は正しいですか、一部正しいですか、間違っていますか?

 ともあれ、これらの発言は臨床場面でしばしばみられるのはみなさんご存じのとおりです。患者さんは原因は多様であるし、そう簡単に原因はわからないという事実から目をそらし,原因は一つであるとして、その原因とされたものに集約し固執して自己主張を行います。内容はどうかと思うし、それでは先に進めないのじゃないか?とも思います。思考は歪められており、こういう主張をする病態を「因果関係病」と名づけたいくらいです。

 そして、因果関係は、いろいいろと悪い事にも使えます。攻撃性を示す手段でもあります。因縁なんてことで利益を得るという行動も普通にありますし、「親の育て方が悪かったのだから、責任を取れ、言うことを聞け!あなたが、あそこで、こういったから、ああなったのよ、誤りなさいよ」など。どうして、こううまく因果関係を使って人を責めることができるのか。

 患者だけではありません。精神分析では、あなたの症状は幼少時のこうした問題があったためで、それを思い出し、意識の中にうぁび上がらされることで解決への道が開かれると基本的には言っているのではないでしょうか。

 正確な因果関係は、人間にはわからないことが多いのではないでしょうか。そう簡単には分からないし、このためにこうなったと言えないはずなのに、そればかりに囚われてしまいます。

 そのほか、因果関係は、患者の病理としては、家庭内暴力に、あるいは統合失調症の被害妄想に、症状形成に深く関与しながら出現してきます。

 さて、因果関係の本当のところは、人間には分からないものどと思います。もし、物事の因果関係がすべて正確にわかってしまったら、それは大変な世界でしょう。

症例

 日々の精神科臨床の中で,因果関係を持ち出して何がしかを主張する患者としばしば出会います。例えば「自分が苦しんでいるのは親の育て方が悪かったからだ。どうしてくれるのだ」と親を責める家庭内暴力の患者がいます。彼は「今の自分の苦しみ」という結果が生じたのは「親が間違った方法で育てたこと」が原因であるという因果関係を強調して,意識していないにせよ自己を正当化しようとします。

 より病理的な場合の例として,「自分の体調が悪いのは隣室者が電磁波を用いて弄んでいるからだ」という妄想が挙げられますが,ここにも因果的な思考が現れ,妄想形成に関与していることがわかります。このように精神科臨床の場では,神経症圏の患者から妄想を呈する重症者まで,さまざまな病態レベルで因果関係が持ち出されて症状を形成または修飾しています。患者ばかりではありません。治療者も「この患者の場合,幼児期の満たされなかった願望が現在の神経症症状を生み出している」と因果関係を持ち出すこともありますし,精神疾患の成因論も因果関係を用いて理論が構成されることがあります。

 これらの因果関係は,あたかも疑いのない事実のように語られますが,その因果関係の正当性を科学的に証明するのは簡単ではありません。本論ではこのような精神科臨床の領域において隅々まで行き渡っている因果関係を用いた主張が,不安や怒りという情動から始まり,多様性の排除,固執性などの共通点を持つことを示しました。また,患者は服薬の効果などの正当と思われる因果関係は否認するという性質も持っており,このような因果関係に関する特有の事態を因果関係病と呼ぶこととし考察をすすめました。

 上述のように,因果関係を持ち出してさまざまな物事を主張する患者をしばしば経験するが,症例を挙げて説明します。生活歴,家族歴などは論旨に支障のない限り最大限改変してあります。

症例1 36歳女性 心因反応

 教育者の家庭に生育し,学業成績が優秀で有名大学の英文科を卒業した女性である。卒後,大企業に就職しましたが,「自分の思っていた仕事内容と異なり,得意の語学も生かせないため」1年で退職しました。「人と親しくなると緊張が高まり,過呼吸発作を起こすようになったので,浅い人間関係で済む派遣の仕事でごまかした」,「親しい友人に裏切られたために,人と深い関係になるのが怖くなった」と言います。その後,アトピー性皮膚炎で悩んでいた彼女は東北地方の一農村の有機自然農法にめぐり合い,人気農業家宅で住み込み修行を始めたのち,同じ志の男性と結婚しました。夫は農家出身で学歴は彼女に劣るものの,やさしい性格で,一緒にいて緊張しない人でした。

 結婚後,まもなく妊娠しましたが,妊娠中に夫の浮気が発覚したといいます。浮気相手は以前から関係のあった風俗嬢であり,夫は単なる遊びであると謝罪したが彼女は許せず,夫をののしり,大声を上げて泣き叫び,死ぬといって飛び出し,ロープで自ら首を絞めるなどの異常行動が始まりました。両親らは彼女にようやく精神科受診をさせました。本人は「夫の裏切りでこのようになった。夫の卑劣な行動にすべての原因がある」と主張します。夫は自らの行動を悔いる一方,両親らともに,彼女の反応は「原因」に比べて大きすぎると当惑しています。彼女は薬物療法を受け入れませんが,それは彼女の「原因と結果」に薬物療法が無関係と思うからです。

「自分の興奮や苦しみはすべて夫の浮気のせいである」,「自分に対人緊張があるのは昔友人に裏切られたからだ」,「病気が原因ならば薬を飲むが,自分が興奮する理由は夫の卑劣な行動のせいなので薬はいらない」など複数の因果関係を持ち出して、もっともらしい彼女なりの理論を主張します。

 彼女はもともと適応不全や対人不安など精神科的な問題を抱えており,何かの契機に破綻する危険があったと考えられます。因果関係の強調により彼女自身の問題を夫の問題に置き換え他責化し,自分の精神的な不安定さを覆い隠しているようにみえます。因果関係を強調する利得はここにあるのかもしれません。因果関係をそれなりに有効に用いられるのは,彼女の知的水準の高さと関係がありそうです。

症例2 45歳女性 統合失調症

 独身である女性は教員免許取得後に教職についたが,うまく適応できずに辞めて,ときどき臨時教員として働きました。彼女は数年前から「近所の不特定の住民が,自分に対して音を出して混乱させるので,精神的な被害を受けている」と言い出しました。彼女は「それに対抗して」窓を開けて大声で叫び,制止する両親に対して攻撃的となり入院に至りました。服薬治療等により軽快すると,彼女の主張は目立たなくなり退院しますが,病識は不十分なために通院を中断してしまいます。(ここで私も因果関係を持ち出しました。彼女が通院を中断するのは病識が不十分なためなのか正確にはわかりません。病識が不十分であるということと、通院を中断するという2つがあるだけで、この2者の間の関係はわかりません)半年後,再び同様の「嫌がらせに対抗して大声を出し」,入院しました。

 しかし,自分は統合失調症ではなく,「自分がおかしくなったことや騒ぐ原因は周囲がうるさくすること」であり,「その原因は過去に働いていた学校の職員間のトラブルに端を発していると思い当たった」と言います。統合失調症の典型的な妄想であり,原因と結果が飛躍し通常の了解の範囲を超えています。また,彼女はこのようにも言います。「書店で手帳を購入したが,3冊並んだ手帳の真ん中の物を選んだ。自宅に帰るとちょうど,自宅の両隣りの家の住民が当てつけのように大きな音を立てて続けざまにドアを閉めた。それは真ん中の手帳を選んだことと関係がある」。このような主張は彼女が入院治療を受けて症状が落ち着くと希薄化して話題にも上らなくなってしまいます。

 外部からの嫌がらせを自分の苦しみの原因とし,原因を自分の病にではなく,外部に投影し他罰化しており,因果関係命題の主張は,自分の責任性を回避する意味を持つようにみえます。自分の精神的問題を外部の問題に置き換えるという性質は症例1と同じで自己保護的であるともいえます。

症例3 男性 統合失調症(引用)

 Jaspers,K.10)は,次のような妄想着想の症例を挙げています。「ある男の患者,この何年間か受けたテレパシーの影響などのただもうひどいことの原因は,L.という娘のせいだということが,突然に本当に当たり前だとある晩そう思いつきました。このことを偏見なしに公平に,客観的に調べてください。ここで述べることは,ただ頭の中で思い巡らした空理空論みたいなものではなく,突然に思いがけなくごく自然にひしひしと頭の中にわき上がってきたのです。私の生活がどうしてこの何年かこのように妙になっていたのか,今まで見えなかった目がぱっと開けた感じでした」。

 このJaspers10)の挙げた症例の場合,結果に対する原因は,妄想気分という準備状態の後,ある娘のせいだと着想されています。原因のわからない不安の強い妄想気分を呈する状態から,妄想が形成され,因果関係が浮かび上がることによって,少なくとも一時期の安心感が彼にもたらされたようにみえます。

症例4 25歳女性 統合失調症

 内省型統合失調症の女性の症例を示します。彼女は,高校2年の時から悪口の幻聴が聴こえ,周囲の友人たちが自分に対して意地悪をすると感じ始めました。成績が低下し始め,不登校ののち中退しました。母親に対して無理難題を言い,自分がこうなったのは母親のせいだと責めたて20歳代のときから入退院を繰り返しました。彼女は,自分が苦しむ原因を始終考え,ノートに書き綴り,主治医に対して,「こういうことだとわかったのです」と言い,ほっとしたような表情を見せることがありました。しかし,彼女の示す因果関係の効力は続かず,不安が高まると,再び「本当の原因」を求め続けました。彼女の挙げる原因とは「素直に生きていない」とか「他者へ遠慮しすぎる」などということです。書籍から影響を受けることもあります。多大なエネルギーと時間を費やす彼女の因果探索の努力は徒労にみえるのですが。

 Blankenburg,W.1)は,20歳の女店員アンネ・ラウの症例を挙げ,統合失調症患者の基礎障碍について考察しました。彼女は職場に適応できず,自分が適応や成熟ができないことの理由を本症例と同様に考え続けました。「私に欠けているのはきっと自然な自明性ということでしょう」,「私には基本が欠けていたからうまくいかなかったのです。ものごとはひとつひとつ積み重ねていくものだから」などと彼女は語っています。

 Blankenburg1)は,自明性の欠如という原因について言及し,基盤を準備するために消耗を伴う作業を彼女は先にしなければならないとしました。原因の同定がされると対応が可能であるような感覚を得て一旦不安が緩和しますが,この有効時間は短く不安が再び出現することを繰り返します。被害妄想の場合は,原因が自己の外部にあるとされるのに対し,内省型統合失調症の彼女の場合には,原因とするものは彼女の内部にあるとされます。

 現代の精神科医ならこういうかもしれません。あなたには何の非難されることもありません。あなただけでなく、あなたのご両親も。あなたが、うまく適応できなかったり、自分を責めて苦しむのは、あなたの持ってしまった遺伝学的な素質のためであり、もう少し言わせてもらえば、あなたのご両親が偏った考えを持ち、あなたへの親としての対応が望ましいものでなかったとしても、あなたと同様な遺伝子の問題がご両親を襲ったためかもしれません。どこかの精神科医が、あなたの判断の異常さの責任があなたにあるととしたり、両親の養育態度にあると、あなたに語ったとしても、気にしないでください。それよりも、事態を解決する方法をともに考えていきましょう。

症例5 40歳男性 統合失調症

 大学を卒業して中小企業に就職しましたが,20歳代前半から身体症状により内科病院を複数受診した後,幻聴や異常行動を生じて発病しました。ときどきアルバイトをしますが適応できずに短期間で辞めてしまい40歳を迎えました。本人は「記憶力が悪いために仕事が覚えられず,職に就けない」と言います。再燃して恋愛妄想により家を飛び出すことがあり入院となりました。病院側の都合により治療途中で病棟が変わりましたが,不安定な状態が続きました。「この病棟の雰囲気が悪くて自分に合わない,このように落ち着かず苦しいのは,病棟のせいだ。元の病棟に戻してくれれば回復するはずだ」と繰り返し言いいます。病棟は換えられませんでしたが,病状は徐々に軽快し他患とも会話ができるようになりました。彼は病棟のことは一切主張しなくなりました。主治医が病棟のことを聞きますと,「今はこの病棟で問題がないと思います。何でそんなにこだわっていたのかわからない」と照れくさそうに話します。

 自分の不安定な精神状態の原因を彼は病棟環境のすることによって,対象のない不安から逃れられているようにみえます。つまり,外部からみれば訂正のできない一方的な主張ですが,因果関係の主張は他の例と同様に防衛機制としての意味を有しているようにみえます。また,一つの因果関係だけが強調され意識の中で前景化され,それ以外の因子が捨てられるという不自然な様相を呈しています。そして,原因が解決されるわけではなく,症状の軽快と共に,防衛が不要になるため,強調された因果関係の主張が希薄化するという形になっていきます。

症例6 24歳男性 統合失調症

 20代の統合失調症の男性患者は急性幻覚妄想状態による入院生活を経て,社会復帰施設に通所しています。普段からキツネが話しかけてくるという幻覚妄想があります。ボスポラス海峡で沈没事故がありトルコ人22人が亡くなった事件をある日テレビで知りました。その後に読んだ新書に,オリーブオイルが脳や心臓に良いため,ごま油を抜いて日本での売上が第2位になったこと,クレタ島で心臓死が少ないのはオリーブオイルが動脈硬化を防ぐためであること,虚血性心疾患の死亡率は日本では死因の第2位であることが書いてありました。ここに,2が複数回出てきて,ボスポラス海峡に近いクレタ島も出てきました。これらは偶然でなく,キツネが「お前も事件に関係していると言って来た」と言い,自分が何らかの意味でこの事件に関係しているのだ,そのために自分に啓示されたのだということがはっきりわかったといいます。

 この症例では,妄想気分を呈した後に,因果関係が明らかにされ妄想着想という形に結実しました。意味不明の不安に満ちた世界を解明しようとする場合の一つの方法が因果関係の想定であるようにみえるますが,この症例ではその過程が示されています。中安19)は,自己保存の危機という認識が不特定の脈絡の無い対象群を自己を迫害する脅威へと転化させ,形式的には妄想知覚,内容的には被害妄想が結実するとしています。新たな恐怖の出現だが,対象の定かでない自己危機的な不安(妄想気分)よりましなのであるとしました。このような機序を偽統合化反応と呼びたいとしているが,それに近い内容であろうと考えられます。

症例7 22歳男性 ストーカー殺人事件

 平成26年,都下で高校3年の女子生徒が刺殺されました。検察側は「被害者への未練を断ち切れなかった被告が恨みを募らせて犯行に至った」としましたが,被告(22歳)の弁護人は,初公判で「被告が幼少期,母親の交際相手から腹を殴られたり,ライターで熱した金属を肌に押しつけられたりしていたとし、また,母親が何日も帰宅せず,食事にも不自由して保護施設を転々としていた」として「量刑を考えるうえで,生い立ちと犯行にどんな関係があるのかを知る必要がある」と強調しました。(朝日新聞 2014年7月23日朝刊38面)

 弁護士は被告が行なった犯行の原因が劣悪な生育環境にあるという因果関係を持ち出して,刑の軽減を要求しました。この因果関係は,肯定も否定も簡単にできることではありません。生育歴を詳細に検討したり疫学的研究結果を利用したりしても,単純な工学的問題のようには因果関係の成否は十分には解明できません。この因果関係の呈示の意味は,犯行の責任を外部にあるのだとするもので,他罰的かつ被害的または攻撃的な要素を持っています。病識がなく被害的な精神障害の場合と似た構図がここにあります。

考 察

1.用語の定義

 本論文で用いる用語を確認しておきます。ある事象Aと別の事象Bがあり,AがBを生起させる場合,Aを「原因」,Bを「結果」と呼び,AとBには「因果関係」があるといいます。因果関係を推論するのは「因果推論」です。さらに本論では,原因を追究し同定しようとする思考過程を「因果探索」とし,因果探索が始まるための故障や通常からの逸脱などを「不具合」と呼ぶことにします。その他,「因果的思考」,「因果的思考方法」,「因果関係思考」など,その都度もっともふさわしいと思われる用語を必ずしも厳密な区別をしないで用いました。因果関係を主題とし,集約性など後述する特徴を持つ病態を「因果関係病」という造語で表現しました。

2.因果推論の問題点と論点の概略

 中井18)は「急性期の妄想は因果律の言葉で表現される・・・人間は自分にも他人にも因果律を要求する。しかし,正気を論理的に証明しようとする努力ほどクレージーにみえるものはない」と言う。本論で提示した症例では妄想に至らないものまで含めて多くの因果関係が主張され,中井18)の言うとおりの奇妙さが伴っている。症例にもたらされている不具合な状況は,遺伝子等からの内因や多くの外因あるいは各要因間の相互作用が関与して成立していると考えるのが妥当である。ところが,それぞれの症例では,一つの原因を取り上げて強調し,集約し固執することが共通しており,それ以外の多様な要因を排除してしまっている。「単一であって多種多様の根を取り去ってくれる意見に人は従ってしまう」という古人21)の言葉もあるが,これらの患者の中ではそれが極端な形で現れ,多様な要因の吟味なしに一つの不適当な因果的論理を採用し,過剰な意味を持たせて固執し,訂正できないという事態に陥っている。

Hemsley,,DR.7)によれば,統合失調症の患者では事象がわずか1回同時に生じただけで両者間に誤った因果関係が導き出されるとした。筆者の経験した統合失調症の女性患者は,抗精神病薬の添付文書の幻覚妄想出現の記載から,自らの統合失調症様症状は薬物によるとして治療を拒否したが,軽視されるべき因果関係に患者が過剰な意味を持たせることをしばしば経験する。

 因果関係に注目した哲学者のHume,D.8)は,正当な因果関係に必要な要素として,原因または結果と見なされる対象が,互いに時間的,場所的に「隣接」(contiguity)しており,結果に対する原因の「先行」(priority)があり,さらに重要なこととして,いつも同じ結果を生じるという「必然的結合」(necessary connection)を挙げている。症例が提示する因果関係は,言うまでもないがこのHume8)の条件を満たすことはできない。

患者は,このように正当といえない因果関係を持ち出し,他の要因を排除し,集約し12),固執してしまう。そして因果的思考は妄想等の症状の成立にも深く関与し,症状形成論の上からも重要な役割を担っていると考えられる。これらの精神科領域における因果関係に関する病的な事態は統合失調症やその近縁領域の患者にみられ,集約,固執などのまとまりのある特徴を持っているので,便宜的に「因果関係病」と名づけ,多方面から考察をすすめていきたい。

3.因果関係形成に必要な条件

Einhorn,HJ.とHogarth,RM.4)は,不確実な状況において不確実な世界を理解するために,あるいは予測できないことが起こったり,世界がいつもと違うと思われたりする時に,人は因果について推論するという。こうした不具合の状況の元で,不安や困惑,危機感などの陰性感情が動因となって,思考力が働き因果探索が始まるようにみえる。因果探索には,まず,そのような情動の存在が必要であると考えられる。

因果探索は,上述のように,不安から惹起されることが多いと思われるが,怒りの感情から生まれる場合もある。境界例の患者は,「先生がこう言ったから・・・」と原因を挙げて治療批判を行なうことがある。「お前がこうしたから,こんな損害になった」と因縁をつける暴力団員は因果関係を商売道具として常用している。「普通は右側に回避するのを相手側の船が守らなかったから衝突に至ったのだ」と,相手に責任を擦り付けたりするときにも因果関係の提示が利用される。このように不安だけでなく,怒りや攻撃性も因果探索利用の際にみられる感情である。そして,こうした強い情動の元では,因果探索は目的達成が優先され,一方的で,集約性,固執性,非論理性という特徴を持つ因果関係病といえる事態を招きやすいことが想像できる。

陰性感情が生じない時,つまり状況が順調に経過している時や通常より良い結果を得た時は,因果探索は通常起こらない。それは,不安や怒りという陰性感情がないからでもあるし,望ましい状態が起きるための原因は一つでなく,必要な条件すべてが正常に機能する必要があるという性質のため,原因の追究が意味を持たないからかもしれない。

次に必要であると思われる条件に,因果探索を行なうための思考力が挙げられる。ある程度の思考力が備わる統合失調症や神経症圏では因果探索が生じ易いようにみえるし,境界例の患者では周囲に要求するために上手に利用するようにもみえる。一方,認知機能の低下した器質性障害,思考制止のある重症うつ病では,このような現象は生じにくいと考えられる。思考障害の著しい統合失調症の欠陥状態では,思考障害だけではなく,無関心や意欲低下などの症状により,因果探索がほとんど行なわれないのは日常的に経験するところである。

因果関係病の成立には不安や怒りなどの情動,適当な思考力と意欲が必要であるといえる。

4.始まりは意識的か無意識的か

このような因果探索が患者の意図により始まるのか,無意識かつ自動的に行なわれるのかという疑問がある。White,PA.23)は因果推論は自動的な処理であるとし,Einhorn とHogarth4)は因果推論は制御的な処理,つまり患者の能動的な関与があるものだとする。

中井17)は,急性分裂病状態の妄想型定位では,基本的な記号学的背理性を無視して強引な世界解読を試みるものとした。本症例からみても,統合失調症の場合,妄想を始めとして特に病的な因果関係の形成過程はするかしないかの選択の上に意図するという主体性は失われており,自動的に進行するとみるのが妥当と思われる。

では,急性精神病状態でない場合はどうか。症例7の弁護士の主張には意図的な要素が含まれているようにもみえるし,症例1の場合にも,若干の意図的な因果関係の利用が含まれているようにみえる。常態的な物事に変化が生じたときに,その原因を探し出そうとする動機が健康な人にも起こるのは想像できる。例えば身近な家族が突然死した場合,驚きや困惑感などの陰性感情の出現とともに,納得のいく因果関係を家族が得ようとするのは,ごく自然な傾向であって,意識をして探索を始めるわけではない。同様の状況において,警察官は特別な陰性感情からではなく,主に職業的な意味から死亡原因を求めるが,特に,悪質な殺人事件の場合には執念の捜査という情動が混ざる場合もあるだろう。しかし,これらの場合も因果探索と同程度に意味のある他の代替的手段は存在せず,因果探索をいくつかの選択肢の中から選んでいるわけではない。

つまり,妄想が生じるような急性精神病状態では,因果的主張は明らかに自動的に始まるといってよいし,判断力が正常に近く保たれている場合は表面的には意図的な要素が含まれているようにみえるものの,自由意思から因果探索が選択されているとはいえず,やはり無意識的,自動的に誘導されていることを否定できないと考える。

5.因果関係思考が有効な分野とは

健康な人が日常生活中で因果探索を体験する典型的な場合は,いつもは順調に機能しているものに不具合が生じた時であり,その時人はその不具合という結果を生じた原因を探求しようとする。例として,順調に作動していた機械式の置時計が止まってしまった場合を考えてみる。時計が止まったという結果がある時,時計の持ち主は原因を除去して時計を再び動くようにするため,止まった原因を探そうとする。具体的な行動として,彼は時計を分解して,結果を生じさせたと思われる原因を探ろうとする。もちろん,時計屋に原因を探させるという選択肢もある。彼は因果推論をして故障原因の仮説を立てる。彼が原因であろうと予測した複数のうちの1つである歯車の破損を見つけ,それが原因だと確信し,その歯車を新品のものに交換した。その結果,時計は再び正常に動き始め,原因を解消し結果を変えることができた。

 これを図式化すると,不具合な結果→因果探索の開始→ある推論→妥当性の検証→次の推論と妥当性の検証→・・・→原因の発見→原因の解消→結果の改善となる。その他,掃除機の吸引力の急な低下とか,飛行機のエンジンの出力が急に低下したなどが因果探索の始まる場合の「結果」である。健康な青年が急に呼吸困難を生じたという「結果」から因果探索が始まり,胸部のレントゲンで片肺に気胸が見つかり,それが「原因」とされ,ドレーンを用いた脱気により,呼吸困難が解消したという例を挙げることができる。これらの因果探索は,一見,主体的,意図的に始まるようにみえるが,第4章で述べたように,他に選択の余地もなく,やはり自動的ないし強制的な現象であるようにみえる。「原因の追究は止めよう」とは言わないのが普通である。このような因果探索が最も有効なのは工学など科学的な分野であることが推測できる。

これらの有効な因果探索の事例では,どこが症例の場合と異なるか考えると,対象となる因果関係があいまいでなく可視化されているということではないだろうか。結果も原因もはっきりと目で把握できる物である。また,主体側の条件の違いとしては,症例の場合に比べて,より健全な思考力と意欲を保っており,情動が安定を保ち冷静さを失わないということが挙げられる。過去の経験から得られた精度の高い予測,仮説設定,一般法則や情報の利用なども有効に働いているが,これらも症例を含めて精神科や人間科学の領域では不十分なものである。

6.因果探索と人類

EinhornとHogarth4)は,因果関係の判断において重要なのは,時間的順序,空間的・時間的な近接性,一致性,共変動などの手がかりであるという。このようなことから,AとBの間に因果関係があると探られていく。彼らに影響を与えたと思われるHume9)は,次のように述べている。「対象間の関係で重要なのは,原因と結果の関係である。事実や存在についてのわれわれの推論はすべてこの関係を基礎としており,この関係によってのみ対象についての何らかの確信に到達する。すべての科学の唯一の直接的な効用は,未来の出来事をその原因によって制御し規制する仕方をわれわれに教えてくれることである。それゆえ,われわれの思考は,いかなる瞬間においても,この因果関係に関して費やされている。けれども,それについてわれわれが形成する観念は非常に不完全なので原因について正当な定義を与えることは不可能である」。彼はこのように因果関係の重要性と問題点についてすでに1700年代に述べている。

Hume9)の指摘を待つまでもなく,因果関係の解明は人間が世界に対峙し問題を解決していく上での,ほとんど唯一の論理的な武器であるといえる。因果関係を探り出すことによってのみ,局面を打開する可能性が開ける。動物の場合はどうか。実験動物の場合を考えてみると,偶然見つけた原因と結果の関係の認識と学習は可能な場合があるが,人間のように因果推論することはできない。

人間のあらゆる分野での進歩は,高度なレベルで因果関係を認知するという固有の能力によって行なわれてきたともいえる。狩猟生活の時代には,偶然性が多く支配し,因果関係を利用できる余地は多くはなかったかもしれない。しかし,より計算が成り立ち,計画性も有効な牧畜農耕社会においては,因果探索はより有効に働いただろう。そして産業革命以降はさらに因果探索は強力な問題解決方法となったのは間違いない。Veblen,,T.22)は,機械化の中でもっとも必要とされた思考方法が因果的思考方法であるという。人類が危機をかいくぐって生き延び,発展し,他を支配するに至ったのは,抽象的な思考の中でも因果関係思考をうまく利用できたからではないだろうか。

社会的な発展と関係する因果関係思考が始まるのには,今まで述べてきたように不安や危機の感知が必要である。統合失調症を始めとする精神障害者は,同じ状況においても不安を感じやすく,因果関係思考を惹起しやすいと考えられる。これらのことから考えると,因果関係思考が人類の発展に有効である限りにおいて,精神障害は必然的に淘汰されずにいるのではなかろうか。この問題は第10章において引き続き考察する。

7.人は如何に因果的思考に惹きつけられるか

 書店には題名に因果関係が含まれた書籍が多く並ぶ。「しつこい疲れは副腎疲労が原因だった」,「うまくいかない人間関係は愛の偏りが原因です」,「疲れがとれないのは糖質が原因だった」,「足の汚れが万病の原因だった」などである。因果関係の提示が強い魅力を読者に抱かせることを出版社がよく認識している。「結果」として挙げられているのは,疲労,人間関係,病気などの精神身体症状であり,その「原因」として,副腎疲労,糖質,足の汚れなどが挙げられている。題名には,原因が単一なものに集約されていること(多様性の排除と集約性)は本論の症例と同じ因果関係病の特徴を有している。そのほか,原因とされるものが読者から見ると意外なものであること(意外性),その原因は何とか解決できそうにみえること(解決可能性)も不具合を感じて解決を求める人を魅了する。

ある種の新興宗教でも同様であり,「人生がうまくいかないのは前世の因縁による」などの因果関係が提示され,その前世の因縁は,お布施をすれば解消されるという解決の方法が具体的に示される。同様に,ある種の民間療法においては,「この原因は,頚椎のゆがみにある」,「すべては歯の噛み合わせにある」などと,身体的問題の原因が提示されることがある。これらの因果関係における原因や結果は元来観念的で捉えどころのない内容であるが,特に原因とされるものが可視化できる因果関係に変換されている。

MRIで頚髄に腫瘍による圧迫が見られたと可視化できれば,腫瘍と進行性のしびれとの因果関係はより明確になり,対処も有効である可能性が高くなる。結果が不安のように捉えどころがなかったり,多数の原因が結果に影響したりする分野では因果探索の効果は減弱するが,可視化できる因果関係へと変換されることによって,実体のない因果関係であっても,不安の軽快等の意味において有効である。ただし,それらの因果関係が希望とともに信奉されている間だけである。肥満を気にする人は次々と新しいダイエット理論を求めるし,内省型の統合失調症では,さらに信奉できる時間が少なく,不安が頭をもたげ,再び因果探索を始めるのが普通である。

8.治療者側の因果関係

治療者の側からみて,内因性精神病と比較して器質性精神病や症状性精神病では,因果関係思考は有効に機能しやすい。例えば,内因性精神病と思われていた患者に脳腫瘍が見つかり原因が可視化できたとたん,正当な因果関係が成り立ち対処の筋道が明確化する。不安と焦燥感が甲状腺機能亢進症によるものだと見えれば,因果関係は有効に機能するようになる。中井18)は内因性精神病を薬物精神病という器質性精神病に置き換えて治療するという考え方を述べているが,これは因果関係思考を有効にする方法ともいえる。精神医学研究では,内因性精神病の症状を数値化して統計学的手法により,因果関係思考が有効に使用できるようにするのは普通である。

種々の精神科的成因論や治療理論の中にも因果関係を用いた理論が含まれている。Minkowski,E.15)は「分裂病者のこれらすべての障碍は現実との生ける接触の喪失という唯一の概念に向かって収斂するように思われた」としているが,この中に集約性を伴う因果関係の性質が認められる。Freud5)の神経症症状と抑圧された幼児期の欲求,森田16)の神経質とヒポコンドリー性傾向と精神交互作用,認知療法における症状と誤った認知は,治療理論の中の結果と原因を表している。Freud,S.5)は,体験の意識化による抑圧の解消が症状軽快につながり,森田16)の場合は,これらのメカニズムの認知とパスに従った治療が行われているが,疾病過程が可視化された因果関係とされ,努力の方向性が明確化されることが有効なのだと思われる。実際には必ずしも原因が解消しなくても,その他の要因の変化が改善をもたらす場合もあると考えられる。これらを有効化するのは,因果関係を含んだ体系が信頼に足るものであり,それに患者が信奉し続けられるかであろう。

精神病理学的な疾病理論の多くはJaspers10)の言う因果的関連からではなく了解的関連を根拠として成立していると思われ,論理的な危険性から逃れられない。木村13)も,Jaspersにおいては,現象学が成因論を内に含む可能性は方法論的に拒否されているとした。このような疾病理論をJaspers10)の言う因果的説明の形式とするには,症状の数量化による統計学的手法が考えられるが実際には困難である。また,ある症状から次の症状が生じるという,原発症状と続発症状が示されるが,その関係は了解的関連から成り立っており,理論構成に慎重な姿勢を要すると考えられる。

病状の改善が思わしくない患者についてケースカンファレンスが行なわれるが,これは治療者側の感じる不具合であり,因果関係的思考が登場しやすい場である。治療者Aは「発病の原因は親子関係にあるのではないか」と言い,Bは「現在の薬物療法が不適切なのだ。適正な処方により症状は軽快する」と言う。Cは「夕方の不穏状態の原因は水分の過剰摂取が原因ではないか」と言う。これらの因果関係の主張のうち,どれか一つが真であるとはいえず,多くの既知,未知の原因と結果が相互に影響しあい,時とともに様相を変えるというのがより真実に近い。そのように勝手に打ち立てた因果関係は仮想の因果関係とも言えるもので,それと無関係に患者の病状が好転していくことは多い。そして,ある原因の改善が病状改善に作用したと誤って確信したままになってしまうこともある。

以上に述べた治療理論,治療法,成因論そしてカンファレンスの場合において,因果関係が主要な役割を担っており,精神科臨床は,そうした因果関係と因果関係の間に生き生きと成立するできごとともいえるのではないか。

9.どのようにして因果関係病は解消されていくのか

患者の主張する因果関係の筋道と治療者のそれとはしばしば対立する。患者は「親の育て方のせいでこうなった」と言って親をなじるが,治療者は「統合失調症の素因の上に高校受験への不安が重なり,親に対して攻撃的である」と考える。統合失調症の患者は「原因は悪の組織の陰謀だ」とし,医師は「患者の妄想の原因は脳内のドパミンの過剰放出である」と言う。いずれの主張も単一化,集約化されているという意味で固執すれば問題がある。

妄想を有する患者の場合,治療者が妄想を疾病に帰属させる考えを呈示しても,患者は固着した一方的な因果関係的思考にこだわり治療者のそれを受け付けない。無理に押せば治療関係を壊すこともある。拒薬により入院を繰り返す統合失調症患者は,「薬を止めると再燃する」という治療者側には明確な因果関係を受け入れることができずに,独自の原因に固執して再燃してしまう。これを病識の欠如あるいは病態失認と呼ぶが,なぜ正常な因果関係が受け入れられず否定され,妄想的因果関係が優先されるのであろうか。それは,外部に原因があるとする因果関係の方が,自分に否があるという因果関係よりも,不安を解消するという目的には有効であり,防衛的な理由によって利得を生じるためからかもしれない。つまり,問題の根本的解消ではなく,差し当たりの不安軽減という目的のために因果関係が利用されるともいえる。これは因果関係思考の正当な利用の仕方ではない。このような因果関係病は,不適切な因果関係に固執することのほかに,あるべき因果関係を否定するという,つまり,因果関係機能の全体に障害が生じてしまう事態であるといえる。

前章で触れたように,私たちは日々このような因果関係と因果関係の間で,精神療法を含む臨床活動を行なっており,それをどう取り扱っていくかに苦心しているともいえる。現実的な対応として,因果関係を保留して患者との強い対立や説得を避け,薬物療法の奏功を待つという方法がとられたりする。時には患者の因果関係に寄り添うときもある。原因を捉えてそれを修正し結果を変えるという正攻法ではなく,薬物療法など他の作用によって病状が軽快し因果関係自体が希薄化していき解消するということも多い。因果関係思考を惹起する不具合がなくなれば,因果関係病も軽快する。このように他の要因の変化によって結果が改善する場合は多く,その際,因果関係の主張は忘却されたり,思い出すのが苦痛になったりして話題に上らなくなる。

また,精神療法の中で因果関係を逆手に取って使用することがある。「こういうことが原因でこうなっているのではないのですか?」などと治療者は安易に因果関係を持ち出して考えや行動を制御しようとする場合がある。これも仮想の因果関係の設定とも言えるもので一時的に有効な可能性もあるが,患者に不要な負担を与えてしまうこともある。この場合も,病勢は因果関係と無関係に変動する。

不具合な状況に遭遇すると,以上に述べてきたように,患者は仮想ともいえる因果関係を自動的に生成する。それは防衛的意味合いを持つが,病状はそれと無関係に推移し,本質的な病状の軽快があると,その仮想の因果関係は不要になり,希薄化していくのだと考えられる。そして,患者も治療者も本質的な変化を正確に認識をすることができないことも多いと考えられ,治療者は認識できない可能性を認識することが重要であるように思われる。

10.因果関係思考がなぜ利用されるのか

精神科領域では因果関係思考の効果が限定されるにも拘わらず,なぜ自動的に採用されるのだろうか。仮説を提示したい。前述したように,因果探索という武器によって人類は問題に対処し,局面を打開して生き延びてきた。それが人にとって唯一の積極的で合理的な問題解決の手段であったといえる。それ以外に考えられる対処方法としては,祈りなどの宗教的・呪術的方法,時の経過を待つという消極的手段,あるいは動物のように因果推論なしに闇雲な行動をとり偶然の僥倖に与るという方法しかない。

人間の因果的思考方法は,長い農耕牧畜生活の中で鍛えられ培われたのではないか。そして,科学や産業の急速に発展する時代になり,第6章で述べたように,因果的解決方法は最大限に効果を発揮するようになり,それを上手に使いこなすことによって人間社会は著しい発展を遂げた。こうした長い歴史の中で,因果的思考方法は人間には必要不可欠なものとなり,危機的な状況を感知すると,遺伝子が自動的に活性化して,因果関係思考が開始されるように遺伝子に組み込まれてしまったかのようにみえる。

ところが,そのシステムは不完全であって,因果的思考が必ずしも有効でない心理的問題などの場合においても,不具合に直面すると,「因果探索開始遺伝子」が活性化され,自動的に因果探索へと誘導されてしまう。そして,妄想気分から妄想を形成したり,一方的で無理な主張を作り出したりする。妄想は一次的な病的体験に加えて因果関係思考の働きが作用して成立しているとも考えられ,幻聴と異なり,因果的思考がなければ,統合失調症の妄想は形成が困難となり,実体化できない恐ろしい妄想気分が継続することになる。同様に因果的思考方法の働きがなければ,家庭内暴力の場合には,根拠が構築できず他責化することができない。暴力団員も因縁がつけられなくなる。このように心理的分野では因果的な思考は症状形成に関与する負の面を有するととともに,仮想因果関係も含めた防衛的意味での利得も持つ。不安を伴った軽い意識障害のときにも因果探索が始まり,周囲の世界を解釈しようとし,それがそのまま症状となる場合もある。

統合失調症患者は不具合のあるときに不安を感知しやすく,因果探索開始遺伝子を発現させやすいと考える。一方,特に産業革命以降の社会の発展は,因果探索とともにあったといえる。このように,統合失調症と社会の発展とが因果探索という意味において親和性があるために,統合失調症関連遺伝子は子孫を残しにくい不利な状況の中でも残り続けたのかもしれない。社会が複雑化して単純な因果関係思考が有効でない世界になれば,統合失調症近縁の精神疾患は減少に向かうのかもしれないし,現にそうなっているようにもみえる。

11.因果関係を超える認識方法

精神的な領域においては,因果関係思考は問題解決のための最適な手段とは言いがたいことを述べてきたが,その問題点はすでに認識されてきたように思われる。

ブッダ6)は,苦が何から生じるか,その原因を次々と辿り,十二縁起として示した。それは当時の宗教界にない斬新な思考方法であったが,これからこれが生まれるという単純な因果関係は本論で議論してきた多様性の排除などの欠点を持つようにみえる。しかし,般若心経等には,「因」に加えて「縁」の存在が加わり,単純な因果的連鎖を超える豊かな世界観が表されている。以下に引用する。

存在するものは単独で存在するのでなく,他との多くのかかわりがあって,はじめてそのものが存在できる。すべての存在がお互いにかかわりあって存在する事実を空と言い,「目に見える存在(色)は空に異ならない(色不異空)」と言い,このかかわりあいの道理を「因縁の法(因果律とも)」と言う。因とは結果を生ぜしめる内的な直接的原因,縁とは外側からこれを助成する間接的原因であり,内因,外縁(げえん)ともいう。すべての物質的現象(色)は,単一に存在するのではなく,何らかの因と縁との複雑な合成により生成されたものであるから,それがなくなるときは「これ滅するに縁りてかれ滅す」ので単一な存在は無い,実体はない。この意味が「色即是空」と表現される14)

このように,仏教は「縁」の発見により,因だけの場合と異なり,多様性を保ち,固執から自由な,より正しく現実世界を認識する方法を得たように思える。

また,道元は現成公案20)の中で以下のように記載している。「薪は燃えて灰となり,それが再び薪にもどることはない。しかし,それをいちがいに,薪はさきにあるものであり,灰はそれに続くものであると考えてはならない。薪は薪になりきっていて,始めから終わりまで薪である。見かけのうえでは前後があるが,それはつながりのない前後であって(前後際断せり),薪はどこまでも薪である。灰もまた灰になりきっていて,始めから終わりまで灰である」。人は通常,薪と灰の関係を薪が火によって燃えて灰になると,即座に因果的な思考によって捉えてしまうが20),道元はその自動的な因果的認識方法という色眼鏡をはずして,ありのままの現実を認識することをすすめる。

Jung,CG.11)は,ある個人の身体の死が,他者の心にその死と関連する不安夢を生じさせることがあるなど,一群の意味あるできごとが同時に生じ,それは精神的であると同様身体的でもあるという事実に関心を持った。彼は,こうした一致の説明には,因果性に加えて新たな説明原理を必要とすると感じ,「共時性」と名づけた。共時性は複数の出来事を離れた場所で、同時期に生起させる原理であり,因果性を補足し,集合的無意識の元型と関連するものであると彼は考えた。元型は身体的でも精神的でもなく,両者の領域を相伴するものであり,それゆえ,身体的,精神的両面を共時的に顕現しうるとした。

ブッダの示した縁起の法「此れ有るとき彼有り,此れ生ずるに依りて彼生ず。此れ無きとき彼無し,此れ滅するに依りて彼滅す」の文で,それぞれの前半が共時性を後半が因果性を意味するとしているという現代仏教者もいる6)。また,Bunge,M.3)は,「法則性を因果性に限定することによって生ずるマイナス面は,人間科学の分野においてより一層明らかである。なぜならそこにおいては,因果関連のみが働いている,ということは全くありえないから」と述べている。

Bohr,N.2)は,人間の知識の数多くの分野が原因と結果という観点による分析に導かれてきたために,因果性の原理は科学的説明にたいする理想にまで登りつめたとしたが,一方で,量子力学の分野においては,因果性の原理ではうまく対処できず,相補性という概念を新たに導入した。また,類似性のある心理学の分野においても相補的関係を認めることはとりわけ必要であろうと述べている。

治療者は自動的に因果的思考に陥りやすく,必ずしも患者やその病態をありのままに把握できないでいる。患者認識の場においては,因果的思考を生かしつつも,それに囚われず,自由であることによって,病態をより正確に捉え,精神療法の質を高めていける可能性が開けるのかもしれない。

Ⅳ.おわりに

 因果的思考法は,人間社会を発展させる原動力になってきたことは疑いがない。しかし,精神科領域や人間学的領域にあっては,因果的思考にこだわるならば,その適用外使用によって世界をありのままに認識できず,苦悩から脱し得ない。なお,本論の試み自体が,患者の中に因果関係思考が生じるのはなぜか?という因果探索から始まっている。その方法が本論で述べたように,対象の問題からして最適な思考方法ではなく,自ずと限界があることを自覚したい。

文献

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Abstract

Problems Related to Causality in the Psychiatric Domain

- Regarding Disorders of Causality –

Akira Kikuchi

Urawa Neuropsychiatric Sanatorium

301-1,Hirogayado,Minami-ku,Saitama-shi,Saitama,336-0041,Japan

 Claims of causality are often seen in clinical psychiatry. The patient will often favor one sole cause in order to rule out a variety of causes. Nevertheless, there are many patients who deny a particular causal relationship even when medication is effective in preventing relapse. Such a unique notion of causality is deeply involved in the establishment of disorders such as delusion. Features of these so-called "disorders of causality" have been described. In terms of the search for causality, there is a need for emotions such as anxiety and anger, and for appropriate thinking and willingness. Conceptualizing the search for causality can be very effective in fields such as engineering; nevertheless, in the psychiatric fields, it is also believed that the search for causality may not always be applicable. Although temporary anxieties can be reduced, being unable to reach a particular objective may be involved in the development of particular detrimental symptoms. In terms of the treatment aspect, establishing multiple causal relationships may pose a conflict. Indeed, clinical psychiatry can be said to establish multiple cause-and-effect relationships among a web of causal factors. The development of the human race has been in conjunction with causal thinking. When faced with failure, there is the automatic activation of a mechanism to induce causal reasoning. Assuming that there is some relationship with genetics, mental illness diathesis is thought to coexist with the development of society, without being selected against. In addition, Buddhist thinking, synchronicity, and complementarity are mentioned as ways to transcend or to supplement causal thinking.