相馬誠胤(そうまともたね)の発病

相馬 誠胤

 相馬藩藩主,相馬誠胤(嘉永5年1852-明治25年1892)は,相馬藩(江戸時代に旧陸奥の国の現在の福島県浜通り北部を治めた藩)藩主は一貫して相馬氏でした。平氏一門の名門であり,鎌倉時代から戊辰戦争終結(1868,慶応4年,明治元年)まで740年に渡ってこの地を治めましたが,このような長期の統治は鹿児島の島津氏,熊本の相良氏など少数に限られるそうです。仙台藩や米沢藩と連携して明治政府軍と戦いましたが,この戊辰戦争で政府軍に敗れ,1871年には廃藩置県によりこの藩は消滅しました。

 この相馬藩最後の藩主(第13代藩主,大名,相馬氏第29代当主,明治になり子爵)相馬誠胤の統合失調症(おそらく)の症状が悪化したため,1879年(明治12年,27歳ころ)に家族が宮内省に申し入れ,自宅で監禁,後に東京府癲狂院(1879年開院)へ入院しました。明治12年は、ベルツが帝国大学で精神医学の講義を始めた時、明治19年に精神医学教室ができ、榊俶(さかきはじめ)が初代教授になったという時期です。榊は明治30年に病死。留学を終えて呉が教授になるのは、相馬事件が決着した後の明治34年です。

錦織剛清の思い込み

 1883年(明治16年),相馬藩の藩士(だった)の錦織剛清(にしごりたけきよ、1855-1921)が誠胤は病気ではなく、家族による不当監禁であるとして関係者を告発しました。錦織は,財産横領を図る異母弟 相馬順胤らの仕業と考えていました。秋元波留夫元東大教授によると、相馬家の家令志賀直道(志賀直哉の祖父)が帝大の教授らを籠絡して、瘋癲病にしたてて不法監禁し、ついには毒殺して主家の乗っ取りを図ったとして、錦織が東京府癲狂院の初代院長の中井常次郎、東大精神科初代教授の榊俶(さかきはじめ)を告発した事件で、明治16年1883年から10年以上にわたって世間を騒がせたといいます。

 錦織に対し,世間からは忠義者として同情が集まり、また当時は診断が未熟で,正常とする医師もおり混乱に拍車をかけたということです。

錦織剛清
錦織剛清

 明治20年(1887),なんと錦織は東京府癲狂院に侵入。相馬誠胤の身柄の奪取に一旦は成功するものの一週間で逮捕。錦織は,家宅侵入罪に問われ禁錮処分を受けるとともに,偏執的な行動が批判を受けたとされています。この時、相馬誠胤35歳、錦織剛清38歳、後藤新平30歳、榊俶30歳、ベルツ38歳、ローレツ41歳、呉秀三22歳でした(±1歳のずれがあるかもしれません)。30歳代中心の人物の間に繰り広げられた事件でした。それぞれのライバル関係が背景にあったかもしれません。

 明治17年(1884)誠胤は子爵となっていましたが,明治25年(1892)訴訟の泥沼化する中で病死。錦織はこれを毒殺によるものとし,明治26年(1893),再び相馬家の関係者を告訴,遺体を発掘して毒殺説を裏付けようとしましたが,毒殺とは判定できなかったとのことです。その年、『神も仏もなき闇の世の中』を出版しました。元東大教授の秋元波留夫によれば、ジャーナリズムと世論はおおかた錦織の告発を指示していたとのことです。

明治28年(1895),錦織が相馬家側より誣告罪(ぶこくざい虚偽告訴等罪)で訴えられ,後に有罪が確定。重禁固4年の刑が確定しました。

『神も仏もなき闇の世の中』
 (錦織剛清著, 1892)

事件の行方

以下,日本精神神経学会のホームページより追加します。

 旧中村藩(現・福島県)主 相馬誠胤は,24歳で緊張病型分裂病と思われる精神変調にかかり,自宅に監禁されたり東京府癲狂院に入院したりし,1892年(明治25)白宅で糖尿病で死去しました。 1883年ごろから,錦織剛清ら旧藩士の一部は,殿様の病気とは御家の財産をのっとろうとする陰謀だとして訴えを起こしていた。 1887年(明治20)には,錦織は東京府癩狂院から相馬を脱走させました。
  相馬の死後1年して錦織は,殿様の死は毒殺だと告訴し,相馬家側の何人かと主治医中井常次郎(前東京府癲狂院長)とが(秋元によれば75日間)拘留されました。 中井は"毒医"とされて有名になったそうです。(中井にしてみればたまったものではありません。めちゃくちゃです)また家令(皇族や華族の家の事務・会計を管理し,使用人の監督に当たった人)であった志賀直道(作家・志賀直哉の祖父)も,陰謀の中心人物として拘留されました。 墓を掘り返し死体を調べましたが,毒殺の証拠はなくて中井らは免訴となり,錦織が誣告(虚偽申告)で有罪となりました。

 錦織を支持していた有力者に後藤新平がいます。明治20年1887年に錦織は巣鴨病院に入院していた相馬を連れ出した際に何と後藤は自宅にかくまったのです。(秋元)この時、後藤は内務省衛生局長だったのですから驚きです。しかも秋元によれば、かくまったときの様子が別に変ったところがなかったので、錦織の主張が正しいと信じて、さらに強く錦織を支援したそうです。極めて優秀な後藤新平ですらわからなかったとは驚きです。また、相馬誠胤は、静岡で警察に保護され、東京に連れ戻されました。のちに、榊が診断書を書いています。錦織の書には、その診断書が載っており、それを秋元が自書でそのまま紹介しています。古語で書かれていますが、それを訳して読んでみます。

相馬誠胤の診断書(榊、ベルツらによる)

 もともと、誠胤は小事で怒りやすかったが、明治9年ころから細事に疑心を起こして憤怒し往々乱行あり、愛憎喜怒常に定まらず侍士、侍女を呵責憤怒すること枚挙にいとまがない。明治12年春以来は症状が増進して4月には1室に鎖͡錮するに至った。発作になると、声高に朗吟する、仏教を唱する。明治17年中には独語し、「人を殺す」などという。現在症としては、体格中栄養、顔面はやや蒼白、容貌は怒気を含んでいる。記憶力がわずかに減衰し、感情は遅鈍である。不眠と便秘を訴える。午前中は新聞を読んだり何もしなかったりで午後は沐浴したりする。ある時から挙動が活発になり、音声高く多弁となる。のみならず、夜間に幻聴を起こす。たとえば、天井に男女の声ありて難詰することがある。咽頭部に苦悶を覚え、足踏みをする。眼光鋭くなる。この症状が強くなり、22日の夜に看護人の両耳を捕らえて外傷を負わせて甚だしく出血させた。再び、顔面に負傷させることもあった。別に原因となることはなかった。一旦悔悟するものの、再び幻聴が活発となって暴行せんと欲す。投薬もしたが、十日の夕刻、飯杓子を以て看護人の頭部を打ち負傷させ出血が甚だしく外科治療をした。総括すれば、神経病家の血族に属し26歳の時から発病し、いまなお精神病にり患している。これに医学の名称を付けるなら、時発性躁暴狂なるものとす。遠因は遺伝歴により明瞭だが、近因は不明である。榊、ベルツ、そして内科教授の佐々木政吉の署名がある。日付は明治24年4月19日である。

 非常に簡潔に要点を並べて、感情の平板化のあること、幻聴がときどき活発化して、複数回の暴力行為に及んだこと。その幻聴は、シュナイダーの1級症状に相当するような形式であることなどがあり、現代でいえば、ICD、DSM、従来診断でみても統合失調症とするのが妥当であると思われます。

後藤新平について

 錦織に組みしていた後藤新平は,明治26年(1893年),相馬事件に連座して5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり失脚し無罪となったのちは政治家に転進しました。そして,台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任しました。その才能と実績は驚異的です。万朝報(よろずちょうほう)はじめ当時の新聞はほとんどが錦織を支持していました。この事件は外国にも,日本では精神病患者は無保護の状態にあるとして報道されました。なお、後藤新平はドイツへの留学経験がありますが、フリーメイソンのメンバーであったという報告があります。どこかそれらしい風貌でもありますね。

1892年,93年にこの事件を報じた本は40冊を越えるといわれています。それもほとんどが錦織側に立つものでした(相馬家側のものは3冊だけ)。錦織が自分の主張をつづった『神も仏もなき闇の世の中』は1892年10月第1版,1893年末には20版近くに達したとのことです。
 つまり、少なくとも、精神病ということが有識者でもよくわからなかったということです。いや、現代でも精神病のことは、多く誤解されていると思います。その結果、対応についてもしばしば間違いを犯しています。それも専門家でも時に誤った認識をして失敗するか、失敗したこともわからないくらいです。

 岩手県奥州市立後藤新平記念館ホームページによると(後藤新平の出生地),明治9年上述したローレツは,愛知県病院での指導監督と付設医学校での教育のため招聘された。同年5月着任しますが,ポストは顧問格(月給300円,県知事以上の高給)で,4年間これらの基盤作りに貢献した。就任した年は,愛知県がドイツ医学を採用し,県令・安場保和のもと洋式病院・医学校の新築に着手した年でもある。明治9年,愛知県病院三等医(月給10円)として勤務しはじめた後藤新平は,ローレツのもとで,まさに西洋近代医学に直に触れたと言える。(それにしてもすごい給料格差)新ウィーン学派の特徴とは自然科学の成果とその実験的手法を医学に直結させた実証的研究と,近代の名にふさわしい科学的姿勢とに象徴されるが,新平はそれを着実に自分のものにしていったようです。

 また,当時の医学教育と医学生の質に少なからず失望を覚えていたらしいローレツにとり,新平との出会いは大きな喜びであったろうと思われる。ローレツは公立医学校を実質的には教頭として主宰しながら,新ウィーン学派の衛生行政思想に基づき愛知県の衛生行政を指導し,住民周囲の不健康な環境を行政によって改善すべきことを説き,新平を衛生行政のスペシャリストにするよう育んだ。後藤は、明治23年(1890年)、ドイツに留学(呉より早い)。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長與專齋(医師、政治家らしい)の推薦で内務省衛生局長に就任した。

 また大阪陸軍臨時病院勤務のあと名古屋鎮台病院に引き抜かれた後藤を病院長に掛け合い「日本のために,日本の医学界のために立派な医者を養成して,公益を将来に期すためには後藤君しかいない」とローレツは後藤を連れ戻している。

 この後藤は衛生局長という立場であったのにもかかわらず、錦織の側に立ってしまった。現代でいえば、厚生労働省の局長が都立松沢病院や東大の精神科教授に対して反逆したということであり、実際に錦織が拉致した相馬をかくまったのですから大変なことです。このように優れた知性をもってしても精神病のことは理解できなかったのでしょうか。また、専門家である榊俶や中井常次郎を信用しなかったのでしょうか。そもそも、医師である後藤が錦織の精神疾患を見逃してしまったのです。
 それは、現在でも同じで、精神医学の深遠さのために、患者さんや精神医療に対する一般人の理解や他の科の医者の理解、いや、そればかりでなく、精神科医でもまだまだ理解が不十分で誤解に満ちていると思います。精神科を揶揄する書籍が出版されたり、ネット上で精神科医や精神医療に対する誹謗・中傷のような意見がよくあります。でも、後藤ですら長い間理解できなかったのですから、無理もないことであると思います。そして、批判する側は、それを生きがいにしたり、生活の糧にしたりして、自分の利益を得ているということになります。錦織も彼の主張が自身の存在理由のようになってしまいました。現代でもそういうことが多いと思います。人間は誰でもいつでも不完全ですから仕方ないのですが。また、万朝報は、有名人の妾が誰だと暴いたりするゴシップ的な記事で部数を増やした新聞だったそうです。つまり、芸能人のスキャンダルと同列に扱われたのです。明治初期では日本は精神医療だけでなく、報道機関も未熟だったようですし、それを妄信してしまう市民も遅れていたのでしょう。明治時代の日本人は列を作って並ぶということができなかったそうです。たしか、森鴎外が西洋人と比較していたと思います。
 ともかく、精神科に携わる人は、他の人たちによくよく理解をしてもらうよう努力すべきですし、診断や治療に関しても科学性を追求し続けなければならないでしょう。

 さて、後藤とローレツは上記のように強いつながりがありました。それと対局なのが、東京府癩狂院、ベルツ、榊らなのではないでしょうか。ローレツとベルツは、ともに明治12年に精神科の講義を名古屋と東京で始めています。ベルツは相馬誠胤を診断しています。相馬事件中の東京帝大教授はベルツと榊です。ローレツ・後藤組とベルツ・中井ら組との関係はよくわかりませんが、相馬事件の背景に、2グループの微妙な関係や派閥が影響していたのかもしれません。その後の後藤と榊の後任の呉秀三がどういう関係だったのかも興味あるところです。

相馬事件後

  • 相馬事件がきっかけとなり,精神病者の監護(監禁および保護)の手続きについて問題意識が高まり,1900年(明治33年)に「精神病者監護法」が制定された。これは精神病者の人権保護や治療を目的とするものではなく,「精神病院」(精神病室)および私宅(社寺の参籠所や公私立の精神病者収容施設なども「私宅」に含まれた)における監置を法によって規定するといった隔離を主眼にするものであった。

精神病者監護法以降

  • 明治33年(1900年)7月1日同法律が施行された。
  • 「後見人,配偶者,親権を行う父又は母,戸主,親族会で選任した四親等以内の親族を精神病者の監護義務者として,その順位を定める。また,監護義務者がないか,いてもその義務を履行できないときは住所地,所在地の市区町村長に監護の義務を負わせる」などの条文がある。
  • 明治34年本邦精神医学の先駆者と言われた呉秀三が東大教授として帰国した。すぐに病院改革を開始した。
  • 明治35年精神病者救治会が設立されて精神保健運動が行われることになった。日本神経学会が発足。現在の日本精神神経学会である。
  • 明治39年「官立学校二精神科設置」の決議。
  • 明治41年1月以降公立精神病院およびその退院者につき調査を行った結果,患者数25,000人,病床2,500床,私宅監置約3,000人であったため,
  • 明治44年官立精神病院設置の決議がなされた。
  • 大正6年(1917)精神障害者の全国調査により,精神病者総数65,000人 のうち,5,000人が入院中であり,約6万人が医療の枠外にあった。
  • 大正8年に「精神病者監護法」が「精神病院法」にかわった。第7条に「精神病院に代用するために公私立病院を指定することができる」とした。欧米では精神医療が公立でされてきたが,日本では民間が担うことになった。補助金を付けることで,昭和15年には,精神病床は25,000床程度まで増床。
  • 昭和25年(1950)「精神衛生法」が制定され,精神衛生鑑定医の制度が設けられ,私宅監置が禁止された。
  • 昭和29年(1954)年,実態調査により,患者数の推定が130万人,うち入院が必要な患者さん35万人に対して病床が3万5千床しかなかった。国は補助金を付けて民間精神病院建設を進め,昭和35年(1960)には,85,000床まで増加した。
  • 昭和36年,山崎によれば,JF ケネディが大統領になり,精神病院の脱施設化が始まった。4000-5000床の州立病院の公務員の給与が払えないこと,州立病院内での人権侵害があったとのこと。環境も劣悪だったらしい。

文献
日本精神神経学会ホームページ
後藤新平記念館ホームページ
秋元波留夫 実践精神医学
山崎學 精神科医療の将来展望 日本精神病院協会誌 38(11)68-75