お雇い外国人の教え
精神医学の教育がどのように行われてきたかです。明治12年から東京大学でベルツが,愛知医学校(名古屋大学医学部)ではローレツが初めて近代精神病学を講義しました。
エルヴィン・フォン・ベルツ(独: Erwin von Bälz,1849 - 1913)は,ドイツ帝国の医師で,明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の一人。27年にわたって医学を教え,医学界の発展に尽くしました。滞日は29年に及ぶ。ライプチヒ大学医学部卒業。ライプチヒ大学に留学していた日本人が大学病院に入院したことにより、ベルツと日本とのつながりができました。日本に来てからは日本人と結婚。草津を再発見し,草津の6000坪の土地と温泉を購入しています。ベルツ通りが今でもあります。余談ですが、避暑地としての軽井沢のスタートは1886年(明治19年),カナダ生まれの宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー氏が当地を訪れ,その美しい清澄な自然と気候に感嘆し,家族,友人たちにそのすばらしさを推奨して,その夏この地へ避暑に訪れたのが最初だと言われています。ついでに、英国人宣教師,W・ウェストンは1896(明治29)年に著した『日本アルプス登山と探検』の中で,自らが登った上高地と穂高連峰,槍ヶ岳を広く世界へ称賛したそうです。外国人たちのお墨付きによって、観光地となるところが同じですね。
箱根富士屋旅館に泊まった時,女中の手が荒れており,ベルツ水(水酸化カリウム,グリセリン,エチルアルコール,芳香性精油,蒸留水の混合液剤で皮膚の荒れ止めや,ひび,あかぎれの治療に用いる)を処方したとのことです。親友のハインリヒ・フォン・シーボルトの影響を強く受け蒐集活動にも取り組みました。花夫人の協力を得ながら,江戸時代中後期から明治時代前半にかけての日本美術・工芸品約6000点を収集しました。特に,絵師の河鍋暁斎を高く評価し,親しく交わりました。ベルツ・コレクションは,シュトゥットガルトのリンデン民俗学博物館(独: Linden-Museum)に収蔵されたそうです。
※シーボルト事件(わき道にそれます) 文政11年(1828年)9月,オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前,所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり,それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され,景保は獄死しました。樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り,その代わりに,景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈りました。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとしたのです。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上,再渡航禁止の処分を受けました。当時,この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられていました。(ウイキペディアより)
シーボルトについては、呉秀三が長年にわたり資料を収集して、東大を退官した後に長大な伝記を書いています。秋元の書には呉がシーボルトを信奉していたことなど詳細に記載されています。当時のわが国の不寛容さが目立つ、悲しい事件でもあります。
シーボルト事件が起こった文政11年は二宮金次郎がうつ病(私見)になって失踪した年です。二宮金次郎は福岡の貝原益軒(1630 - 1714)を信奉し「大和俗訓」を愛読しました。シーボルトも貝原益軒を尊敬し日本のアリストテレスと呼んでいたそうです。その理由は益軒の「大和本草」という植物学辞典に注目したためではないかと私は思います。益軒は植物の名称をラテン語でも表記しています。(アリストテレスは動物,ゲーテは植物の図鑑を作成しています、そしてシーボルトも)後述する斉藤茂吉(1882 – 1953)の息子,斉藤茂太も精神科医ですが,貝原益軒の「家道訓」を訳しています。斎藤茂吉と同門の東大教授内村祐之(うちむらゆうし,1897 - 1980)の父親は内村鑑三で,彼は「代表的日本人」5人のうち1人に二宮金次郎を挙げています。鑑三は米国に留学していたため,英語で「代表的日本人」を出版しました。ジョン・F・ケネディは,日本人の中でもっとも尊敬する人は誰かと日本人の記者に聞かれて上杉鷹山(山形米沢藩藩主)と答えました。おそらく,代表的日本人の中に鷹山が入っており,ケネディは同書からの情報を得たと私は思います。質問した日本人の記者は鷹山のことを知らなかったとされています。残念。二宮金次郎の失踪(うつ病時の)について東大教授で内村祐之の弟子の臺弘(うてなひろし)はハンストとしていてうつ病でないとしています。臺は師の父親鑑三が二宮を尊重したため,うつ病を否定したのでしょうか。金治郎のことを生活療法(精神疾患の治療法の一つ)の開祖とまで言っています。東大教授だった秋元波留夫(1906-2007)は,弟子の精神科医が精神科病院を開業した時,サナトリウムの名称を与えました。かくして,昭和38年6月4日の雨の日,阿部完市による浦和神経サナトリウムが誕生しました。その雨の日,秋元はこの地,現在の当院F病棟の場所にいました。
アルブレヒト・フォン・ローレツ(1846年~1884年)オーストリア生まれ ウィーン大学医学部に学び駐日公使館付の医官として来日。愛知県公立病,院愛知県公立医学校,石川県金沢医学校に赴任。医学教育に尽力しました。1880年(明治13年)9月 医学教育の充実強化に全力を傾注した山形県令三島通庸の強い招きにより,県済生館医学寮教頭 館指導医として来任。新進気鋭の西洋人の医師として 診療水準の向上と医師及び産婆養成等,多大の貢献をしたとされます。明治15年(1882)8月任を終えて帰国。ウィーン郊外ヒンメルサナトリウムの病院長となり,同地に永眠しました。
私個人的には、ローレツとベルツが会ったことがあるのかが気になります。なぜならば、のちに紹介する相馬事件で、ローレツの弟子の後藤新平らが、東大の榊教授らと対立したことによって、事件が紆余曲折して長引いたと思われるからです。
明治19年には,帝国大学医科大学に精神病学教室が置かれ,初代の榊俶(さかき はじめ)教授が誕生しました。榊俶(1857 - 1897年)は,明治期の医師,医学博士。明治13年(1880年)東京医学校を卒業後,明治15年(1882年)ベルリン大学(グリジンガーの次のウェストファルに師事)に留学し精神病学を専攻しました。4年間欧州で精神医学を学んで、明治19年に帰国して精神病学教授になり、日本人として初めて東大で講義を始めました。そして、東京癲狂院を明治20年に辞職した中井常次郎のあとに院長を兼務しました。明治22年には東京府巣鴨病院となりました。
さらに明治30年に榊のあとを継いだ呉秀三教授によって日本における近代精神医学の基礎が固められました。(※西丸によると呉はクレペリン式の講義を行った)
呉との対比のためにまずピネルを紹介します。
フィリップ・ピネル(Philippe Pinel, 1745年4月20日 - 1826年10月25日)は,フランスの医学者,精神科医。1745年南仏で生まれ,1767年,トゥルーズ大学で神学の学位を取得。その後トゥルーズ大学医学部に再入学し,1773年に学位取得。1774年モンペリエ大学の医学部で臨床に関わる研究を続けた。1785年に親友が急性の精神系疾患になったのをきっかけに,心理学的精神病理学医へ転向しました。1792年,当時パリ周辺の精神疾患患者や囚人を一堂に収監していたビセートル病院に職を求めました。その後30年以上にわたって,閉鎖病棟で鎖につながれている精神神経症患者と出会う。1793年1月21日に薬理学教授のルイに閉鎖病棟の改善実施を進言。同8月25日,閉鎖病棟からの精神疾患の患者の開放が実現する。1794年,サルペトリエール病院に移ります。1795年5月13日主任医員となり,同病院の閉鎖病棟の改善と同病院のホスピスの開放病棟化等,当時では画期的な改革を行いました。1795年にパリ大学の病理学教授に就任。1804年アカデミー・デ・シアンスの会員となる。1826年パリで没。
ピネルの医療は,「心的療法」(traitement moral)に代表される純粋に人道的な心理学的臨床を重んじる精神理学医療でした。「薬の過剰投与」を廃し,人道的な精神理学療法によって薬物療法の過度依存を戒めました。そして患者の人権を重視し,治験ではなく臨床による心理学的な温かみのある理学療法を重んじ,人道的精神医学の創設者となり,かつ,フランスの人道医療の魁(さきがけ)となりました。なお、サルペテリオール病院は、ダイアナ妃が息を引き取った病院でもあります。
患者を解放するピネル トニー=ロベール・フルーリー(英語版)画
いわゆる「精神病患者を鎖から解き放った」初めての医者として知られているそうです。ただし,近年の研究では,ピネル自身の発案というより,ピセトール精神病院の元患者であり,後に同院の監護人となったジャン=バティスト・ピュサンの影響が大きかったとされているようです。西丸は、教科書のp.377で「実は最初は十数人の患者の鎖を拘束衣としただけだったとしている。また、秋元は、鎖を外しているのが、看護人のピュサンであり、それを見守っているのがピネル医師だという。
呉秀三
元治2年2月17日(1865年3月14日)- 昭和7年(1932年3月26日)
呉秀三は,初代の精神病学担当教授の榊俶(さかきはじめ)が早世したため,近代日本の精神医学・医療の事実上の創設者となりました。 呉(1865~1932)は,1890年(明治23)に,帝国大学医科大学(現東京大学医学部)を卒業,呉の才能は卓越しており、在学中から「医学統計論」を翻訳したり、医学心理学総説というべき「脳髄生理精神啓微」という単行本を出したりしました。
呉ははじめはベルツのドイツ語の講義を受けたといいます。しかし、ベルツは内科医であり精神医学の講義としては不十分であったようです。(秋元)1891年に医科大学精神病学教室(榊俶教授)助手,東京府巣鴨病院医員となり,1896年に医科大学助教授となりました。(※明治30年(1897)に榊が死亡) 1897~1901年の間,オーストラリア・ドイツ(ウイーン、ハイデルブルグ、ベルリン、パリ)に留学し(秋元によれば文部省より命ぜられた),(秋元によれば、留学の最も大きな収穫はクレペリンの臨床医学体系だと思うとしている。また、患者の人道的処遇の教訓を得たことが大きいとした。呉はピネル後のサルペトリエールでも学んでいる)
1901年(明治34年)帰国と同時に医科大学教授,巣鴨病院医長(制度が変わって1904に院長)になりました。呉の留学中は、法医学の片山國嘉が精神医学の教授と巣鴨病院長を兼務していました。
翌1902年(明治35年)に三浦謹之助(内科教授)とともに日本神経学会(現在の日本精神神経学会)を創設,「神経学雑誌」を創刊,同年精神病者慈善救治会も設立しました。 1918年(大正7)には,「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」(樫田五郎と共著)を発表し,かの有名な「我邦十何万ノ精神病者ハ・・・」(「わが国十何万の精神病者はこの病を受けたるの不幸のほかに,この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」)の言葉を残しました。
1919年に,巣鴨病院が移転してできた東京府松澤病院長になり,1925年(大正14年)に,定年(60歳)により教授・院長を退官・退職。 その後1927年(昭和2年)に,日本医史学会を創設し,理事長となりました。1932年(昭和7年)67歳で逝去しました。2018年にできた「夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年」という映画があります。
呉秀三の銅像は2基あり、秋元によると、松沢病院内の1つは、昭和14年にでき、除幕式も行われたが病院改築によって場所を移され、胸像の置かれた築山は荒れ果ててしまったらしいです。院長として昭和54年に着任した秋元が整備したようですが、また、移動しているようです。もう一つの東大の銅像は、昭和53年7月1日の朝日新聞に、病棟を占拠していた青医連が内部を公開したが、ホコリを被った呉の胸像の台座には古いアジビラが張り付けられていたといいます。ピネルの銅像が堂々とサルペテリエールの正面玄関わきにあるのと、雲泥の差があります。日本には孝の文化もあるはずなのに、呉にもう一度「この国に生まれたる不幸」と言われそうです。その時々の管理者には、先人を大切にしてもらったほうがよいのではないでしょうか。教育の一環と思います。同じく、よい精神医療を求めた先人なのですから。
秋元の書から読み取ると、呉は少なくとも2つのことで困っていたと思います。一つは、患者治療体制や環境の不備であり、私宅監置の問題、昭和33年にできてしまった精神病患者監護法などです。もう一つは、東大の精神医学教室のみ東大の構内に置かれず、精神医学だけが、東大においても医学の中でも軽視されていたことです。残念ながら、長期にわたって学問や治療の場は不十分で、呉らの努力が報われませんでした。精神病というものの理解が困難であることが精神医療の発展をゆがめてきたという気がします。それは、形を変えてはいるものの、世界全体でみられるように思います。
呉秀三の病院改革(明治34年~) ピネルに遅れること100年
- 拘束具使用禁止。それらをすべて焼却処分する。呉は明治34年の10月に帰国したが、拘束具の禁止は、なんと11月である。
- 患者の室外運動の自由化 - 看護職員や家族が付き添い,病院構内での運動を自由化。
- 旧来の看護観を持つ看護長などリーダー格の職員を更迭し,看護職員の人員と意識の刷新を図る。
- 新しい看護長には医科大学附属病院で看護学講習を聴講させ,看護技術の向上を図る。
- 患者処遇の改善と治療方針の刷新。
- 作業療法の積極的活用。
- 病棟の増改築の実行。
明治33年(1891年)精神病者監護法が作られ、私宅監置が制度化された。明治35年(1902年)に日本神経学会ができ、のちに日本精神神経学会になります。明治41年の調査では、患者数2万5000人、病床2500床、私宅監置3000人だったそうです。大正6年(1917年)の調査では、精神疾患患者6万5000人に対しベッド5000床、私宅監置を含めて6万人が病院外で生活。精神病院は、東京、京都、大阪に偏在(3/4)今は西高東低で偏在しています。
明治時代,多くの精神障害者は,監禁を許していた精神病者監護法のもとに,私宅に監置されていた。呉秀三は,1910年(明治43)から1916年(大正5)までの間,監置室365,被監置精神病者361人の実態調査をおこない,かの有名な言葉が載っている「精神病者私宅監置ノ実況及ビ統計的観察」(1918年,大正7)で,その実状を明らかにしました。この本は入手しています。監置室は1~2坪のものが約60%で,極めて悲惨な環境であったといいます。入院が私宅監置を上回ったのは,ようやく1924年(昭和4)でありました。精神病院以外の場所でも拘束できる保護拘束の規定があり,戦後まで長く続いたそうです。なお,当時は今では考えられないような様々な拘束用具(写真)が用いられていました。「保護拘束」規定が完全に廃止されたのは,1965年(昭和40)の精神衛生法改正においてであり,その間実に65年を要したことになります。その後も写真6にあるような拘束衣は最近まであちこちで用いられていました。(日本精神神経学会ホームページ)そうしなければならないほど大変な病気・病状だということでしょう。
※ピネルと呉の「病院改革」には共通点が多いようにみえます。呉はパリに留学した時、サルペトリオールでピネルの弟子に学んでおり、影響を受けたのは確かです。しかし,現在,拘束具をどの病院でも使用しています。100年たっても200年たっても繰り返されています。いったいどういうことでしょうか? 呉は,「旧来の看護感を持つ看護長」などは悪とみていたようです。呉は、拘束が取れないのは、古い看護感を持つ看護師のせいであるとみたのはないでしょうか。見るに堪えなかったのでしょう。
しかし、身体的拘束がされていたのは、古い看護長の考えだけではなく、必然的な理由があったのではないでしょうか。しかし呉は我慢できなかったんでしょう。それでバッサリと拘束をやめた。呉は外国から帰国して病院長としての権力を得たわずか1か月後に拘束の全面禁止を行います。たぶん、もっと仕事を続けてからでは、事情が変にわかってしまいできなかったかもしれません。熟考してから取り組むべきだという考えもあるでしょうが、どちらが正しいのかわかりません。
松沢病院ではやがて20%近くまで拘束率が上昇してしまいました。拘束率が高い理由があるはずですが、呉はそれを情熱で乗り越えた、しかし、現実は変わっておらず、根本的な解決には至らなかったのだと思います。
現在でも、身体的拘束を行っているのは、職員の意識が低いためではないかとかと思っている医療従事者もいるかもしれません。情熱ばかりでなく、科学的な方法を十分準備しつつ対応しないとまたもとに戻ってしまいます。実際に携わる職員は,医療事故にも敏感になるご時世、事故防止し安全に,過度な負担なく職務を遂行するために,どうしても拘束具使用は合理的な面があり、それに代わるものが見いだせないところです。
この辺は非常に重要な問題ですし、ブログで数量的な面からも検討していますので、ご覧いただけますと幸いです。もちろん、長期的には失敗しても、あまり難しく考えずに思い切って行動に移した呉はそれはそれでよかったと思いますし、現在の松沢病院は、ここ数年で、それこそ科学的に取り組んで身体的拘束率を下げているそうです。
先日、私の老齢の父親が内科に入院しましたが、転倒防止のため拘束に同意するという文書にサインをさせられました。精神科病棟では、指定医が拘束の判断をしますが、内科の病棟では法律がありませんから、署名をもらっておけば、その時の状態で看護師が判断するのでしょう。私はまったく抵抗がありませんが、他科ではそうしているのだなあと思いました。精神科の拘束より、職員はなんとなく抵抗が少ないかもしれません。
以下は呉の門下生たちです。森田正馬(まさたけ,1874~1938,慈恵会医科大学教授)は,森田療法の創始者,松原三郎(1877~1936,金沢医科大学教授)は,「神経学雑誌」創刊期に編集・雑務をひとりで担った。 齋藤玉男(1881~1972,日本医科大学教授)は,社会精神医学に独自に発言をした。齋藤茂吉(1882~1953,長崎医科大学教授)は,青山病院長であり,歌人としてもつとに有名であった。池田隆徳(1882~1966,東京女子医学専門学校教授)は,救治会事業で呉を支えた。下田光造(みつぞう,1885~1978,慶応義塾大学教授,九州帝国大学教授,鳥取大学長)は,「執着気質」の提唱者として知られている。 林道倫(みちとも,1885~1973,岡山大学長)は,日本脳炎の研究から統合失調症の生化学的研究の端緒をつけた。加藤普佐次郎(1888~1968)は,千葉医学専門学校卒で,東京府立松澤病院で本格的作業療法を展開し,今でも院内に作業療法で作った加藤山(因みに周囲の池は将軍池)が残っている。これらの人たちを中心に呉門下から幾多の秀才が排出し,その後の我が国の精神医学・医療を発展させ,内村祐之へと繋がって行きました。(精神神経学会ホームページより)※呉の書籍のまえがきを読むと,呉が非常に情緒的で,人道的,愛他的であることがわかります。見ているのも切なく感じ,患者に深く同情していることが伝わってくると同時に何とかしなくてはならないという考えが強くあるようです。
文献
秋元波留夫:実践精神医学講義.日本文化科学者 2002
日本精神神経学会ホームページ
呉茂一:呉秀三小傳 新樹会 昭和48年
呉秀三、樫田五郎:精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計学的観察 新樹会 昭和48年
西丸四方:精神医学入門 南山堂
浦和神経サナトリウム創立50周年記念誌「恕」
2020年6月公開